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【アジサイ】
櫟女学園へ入学して2ヶ月あまり。
アジサイの花が咲く頃、わたしは、寝込んでしまった。
病気…?
そう、病気かもしれない。
もしそうなら、どんなによかっただろう…
1.
「36度2分」
受け取った体温計の目盛りを、朝吹〔あさぶき〕さんは読み上げた。
「平熱ね」
二段ベッドの下で寝ているわたし――佐上真理〔さがみ・まり〕――を覗き込む。
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
わたしは頷く。
―――嘘だ。
体は、鉛のように重い。
どうしてこんなに重いのか。
自分の体じゃないみたい。
それでも。
異常がないのに、寝ているわけにはいかない。
「授業には、出るから。先に行ってて」
すでに他のルームメイトは学校へ登校している。
四人部屋の中には、わたしと朝吹さんの二人だけだった。
「熱がないからって、油断しちゃだめよ」
「平気。だから、行ってて」
「そう?…じゃあ、先、行ってるね」
ブレザーの襟を直しながら、朝吹さんはも一度わたしを見つめ、それからようやく部屋を出 て行った。
………ふぅ〜〜〜
思わず安堵のため息が出てしまう。
心配してくれるのはありがたいけど、正直、他人に気を使われるのは疲れる。
数日前から疲労感とダルさをおぼえはじめ、ほとんどベッドに寝たきりのわたし。たとえ登校 したって、 今は満足に授業を受けられるかどうか。
異変に気づいたのは、世界史の授業の最中。
その日は朝から気分が優れず、なんとなくぼんやりしているな…と感じていた。
頭の中いっぱいにスポンジが膨らんでいるような、重たくて憂鬱な感じ。
一限目からぼうっ…として授業の内容がほとんど耳に入らない。おかげで先生に当てられ ても、質問が何だったのかすぐには分からないほどだった。
「佐上くん」
黒板を背に講義をしていた名取先生が、わたしを見る。
今は二限目の世界史。
「……は、はい」
また当てられたのか、とわたしは慌てて立ち上がった。いつの間に質問されたんだろう? 軽いパニックに陥りながら、わたしは緊張して次の言葉を待った。
「いや、座っていい。…どうしたのかね。具合が悪そうだが」
昔の英国紳士のようなジャケットに蝶ネクタイを締めた名取先生は、皺の多い初老の男性 教師だった。 すっと背筋が通って、動作がいつもきびきびしている。厳格そうな外見とは裏 腹に、彼の視線は柔らかくわたしを見つめていた。
「いえ…別に」
席へ戻りながら、わたしは怪訝な面持ちで答えた。確かにちょっと変だけど、指摘されるほ どおかしな所は無いように思えたから。
けれど名取先生はじっとわたしを見つめると、
「気分が悪ければ休みなさい。体調を崩しては授業も何もない。いいね?」
「はい…」
頷いたわたしだったが、(そんなに心配しなくてもいいのに)と思った。
でも。
授業が終わって休み時間が来ると、突然、ドッとひどい疲れがわたしを襲った。
呼吸が、ひどく浅い。
まるで見えない何かに胸を圧迫されているように、肺が息を深く吸い込めない。
わたしは立ち上がることができず、机の上に突っ伏した。
―――どうしたのかな。
名取先生に言われた途端、それまで気にも留めていなかったことが急に迫って来たような。 ううん、それとも、あえて気づかない振りをしていたのだろうか。
どっちでもいいけど…これ、重い……
「――佐上さん?」
朝吹さんが声を掛けてくる。
「名取先生が言っていたけど、調子悪いの?」
「ううん…」
答えるのも面倒くさくて、わたしは顔を声のした方にちょっとだけ向けて言った。
「なんだったら保健室行こうか?」
「いい」
「だって」
「いいの」
“いいからほっといて”と言いそうになって、言葉を飲み込む。心配してくれるのは分かって いるのだけど、 なぜか朝吹さんの親切がひどく疎ましかった。
―――構わないで。そばにいないで。
だるい。
重い。
このまま、席ごと地面まで沈んでしまいそうだ。
わたしはうつ伏せになったまま、ひたすら自分の重さに耐えていた。
結局、次の数学の授業でアウト。
もう先生が何を言ってるのか分からないぐらい体中が重くて、やっとの思いで、わたしは授 業を中断して保健室へ行かせてほしいと言った。朝吹さんが付き添ってくれると申し出てく れたけど、断った。誰にも近寄って欲しくなかった。
鉛の入ったような足を引き摺りながら、保健室へ行った。
養護教諭の見立てでは特に体の異常はないとのこと。念のため風邪薬を貰って、女子寮 へ戻り、服も着替えずにベッドへ潜り込んだら、本格的にめまいが襲って来た。
ぐるぐると体の芯が不規則に回転している。
すぐ上のベッドの天板が、異様に高く感じられた。
経験したこともない違和感が押し寄せてくる。
だるい…重い…だるい…重い…
わたしは目を閉じてめまいに耐えた。
とても眠る気分じゃない。
窓の外から聞こえてくる沙々羅〔ささら〕川の微かな水音。初めて寮で過ごした夜は、耳に ついて寝つけなかったっけ。今は育った町の騒音ぐらいに響く。
女子寮のどこからか聞こえてくる甲高い笑い声。廊下を小走りに駆ける足音。小鳥の絶え 間ないさえずり。 みんなみんな、キリキリと脳に突き刺さって悩ませる。
布団を深く被って身を包んだ。息が熱くて苦しい。
早く夜が来ればいいのに。
…そう思って布団から顔を出すと、まだ部屋は明るかった。寝ていなかったのか。でも、光 が変。
(…あれ…明かり、点いてる)
蛍光灯がふたつ、白々しい光を室内へ投げ掛けていた。
「―――あら。やっとお目覚め?」
朝吹さんの声がする。
「…やっと?」
わたしは目をしばたたかせた。そういえば、まぶたが腫れぼったい。声も少し枯れている。
半身になって身を起こすと、
「あらら。佐上ったら服着たまま?」
「春眠暁を覚えず、ってか」
白崎さんと金子さんがこちらを振り向いた。ふたりともルームメイト。わたしたち四人がこの 部屋の住人だ。
「そんなに寝ていた…?」
カーテンが引かれているところを見ると、時刻は少なくとも6時は廻っているだろう。女子寮 へ帰ってきたのが昼前だから、都合7時間近くは眠っていたことになる。けれど、それだけ 寝ていたにも関わらず、 疲労感は少しも抜けていなかった。
というより、眠ったという自覚がない。体のだるさがわずかに減っただけで、不快感は相変 わらずだった。
体を起こしていられず、わたしは再びベッドへ沈んだ。
朝吹さんが心配そうにかたわらで跪く。
「ねえ、お粥あるんだけど。風邪かと思って作っておいたの。今、あっため直すね」
「…いいの。食べたくないから。ありがとう」
「だけど、お腹空いてるでしょ? だから…」
「いいってば」
思いがけず、強い声が出た。
朝吹さんが驚いた顔をしている。きっと、ふだんおとなしいわたしが乱暴な口を利いたので 意外だったのだろう。彼女だって驚いたが、わたし自身もビックリしていた。こんな反射的 に言葉が口を突いて出るなんて。口の利き方には気をつけているつもりだったのに。
「…ごめんなさい」
布団を被って、辛うじて謝る。
「…朝吹。そっとしとこうよ」
「調子悪いのよ、彼女。明日になったら、門脇んところへ連れて行こう」
ふたりが声を掛けるので、
「…わかった。じゃ、お腹空いたら声掛けてね。気分とか悪かったら、すぐ言うのよ」
頭だけ頷くと、やっとベッドから離れてくれた。正直、ホッとする。
「…でさー、久しぶりにコンビまで降りてったら、ちょーイケメンがいてさー。でさでさ、思わ ず見てたらケータイで『ああ、おっかあ? まんず、見つかったわー』とか言ってさー。がっ くりだよー、もー」
「これで都会だったら『ありえねー』だけど、ここらじゃ『ありえ過ぎるー』だねー」
「だけど、着てるのが野良着でも、中身良けりゃ化けるかもよ」
「そっかー、ナンパすっかな、今度」
「やーめーろーよー、櫟女出たらいい男いっぱい見つかるって」
「そっかー? ここ来たら、なんか世界観変わるぞ」
「イイ男の基準がー? どんな風に?」
「例えば、おいしい野菜を作れるかとか、料理がうまくなきゃ絶対やだとか」
「マジそれ、ありえるー」
ぎゃははは、と会話が盛り上がっている。
ああ…だけど…彼女たちのおしゃべりがうるさい…
どうしたんだろう…前はこんなに気に障ることはなかったのに…
じくじくと頭の芯が痛む。
―――何の病気だろう。
体の具合は悪くない、って言われたばかりなのに。
なぜか病気のことが頭から離れない。
気持ち悪い…
何が、とか
何を、とか
ではなく。
なんとなく、わたしを取り巻く世界そのものが。
暗闇へ引き摺られるように、わたしは眠りへ堕ちていった。
次の日も、わたしの具合が良くなることはなかった。
2.
名取先生に言われて寮へ帰った次の日、這うような気持ちで女子寮を出た。食欲は相変わ らずなかった。
学校へ登校しようにも、『授業を受ける』と考えただけで怖気をふるう。
あの狭い教室の中でみんなに囲まれてじっと40分間耐えている自分を想像すると、息が詰 まりそうになる。もちろん授業の中身なんてろくに分からないに決まってる。
なぜだろう。
わからない。
当たり前のことが、なぜかひどく大変なことのように思えてしまう。
それでも、なんとか出ようとした。中学校まで無遅刻無欠席のわたしが、いくら先生に言わ れたからって授業を放り出して帰っただなんて、耐えられない。『学生は勉強が仕事だ』っ て親から言われているのに。 わたしだってそう思う。タダ飯食らって生きようなんて思って ない。だから…出ようとしたのだけど…
ようやく起き上がる気になった頃、ルームメイトはみんなすでに登校していた。完全に遅刻 だ。
朝吹さんは心配してくれたけど、鬱陶しさは昨日よりも増していた。悪いけど、構わないで…
重い体をベッドから引き摺り出し、制服に着替える。何度もボタンを掛け違えた。自分の手じ ゃないみたい。
教科書を詰めた鞄を持ち上げる。ずっしりと重かった。昨日の朝とは別な物のよう。みんな は教科書を学校へ置きっ放しにするみたいだけど、そんないい加減なことはできない。でも、 今は鞄ごとゴミ箱へ捨ててしまいたい気持ちだった。
部屋を出て、寮の玄関を出て、広い前庭を横切る。周りを囲む木のさらさらと揺れる葉擦 れの音が不気味だった。
女子寮から下の学校まで続いている踏み分け道を歩いて行く。俗に『けもの道』と呼ばれる そこは、下生えの草を踏みつけてつくられた自然の人道。少し湿った土の道を進むと、草む らから何だか分からない虫が頬に張り付いたので、手で強く払った。
自然石を刻んで作った仏像とか得体の知れない石碑が道端にひとつふたつ並んでいる。わ たしはそこを通るとき、大きく避けて進んだ。おかげで草むらに少し入り、足を滑らせそう になる。緑って大嫌い。
眼下に学校が見える。
重なる枝の隙間から、木造の建物がちらりちらりと覗いた。笑っちゃうくらい旧い建物で、伝 統とか歴史的なんとかとか、その手の人から見れば良い建物なんだろうけれど、寒いし隙 間風は入るし空調はないし、最悪。なんでこんな物に愛着を持つのか理解し難い。
小学校からコンクリの建物だったし、エアコンは効いていたし、校舎が好きってことはなか ったけど、このオンボロに比べれば遥かにましだ。
本当なら、こんな所にいるはずはなかったのに。
そう…志望校へ合格していれば。
わたしがもっと優秀だったら。
親の期待に背かなかったら。
考えるそばから憂鬱になる。軽い吐き気がして、わたしは側に立っている木へもたれかか った。
肩を叩かれたのは、その時だった。
「おい」
ぼん!と感嘆符がつくほど強く、それでいてふわん…とした衝撃が走る。
「ひゃっ」
ビックリしたわたしは、半ば飛び上がりながら後ろを振り返った。
―――子豚…?
一瞬、そう思う。
けれど、そこにいるのは動物ではなくて、間違いなく人間だった。
臙脂色のジャージに身を包んだ、小太りのお姉さん。赤くて太いブチ眼鏡を掛け、髪を短 く切り揃えている。ジャージの下からでもわかるほど胸が大きい。けど、それよりもお腹が 樽のように太くて、思春期の乙女にしては明らかに太り過ぎだった。
どう見たって『デブ』の一言で片付けられそうなのに、なんだか地面からどっしりと生えてい る大木か岩石のよう。ジャージの裾を膝と肘までめくっている。鍬を握るその腕と、足のた くましさ。肌が濃く、日焼けサロンで焼いたのではない自然な艶がある。
裸足のままゴム長靴を履き、腰に手拭ををぶら下げている。その姿を見たわたしは、なんと なく『おっかさん』という言葉を連想した。
その人は次の言葉を発せず、じっとわたしを見ている。
真正面から覗き込まれているというのに、少しも不快ではなかった。いつも他人の視線は 苦手なんだけど。不思議…
まぶたが厚ぼったくて、目が細い。鼻の頭がまあるくて、少し上を向いている。頬がリンゴの ように赤く、 顔全体に血色が良かった。本当に健康そうな豚みたいな顔をしている。
いつ「どうした」とか「大丈夫?」と声を掛けられるのか待っていたのだけど。
「帰りな」
急に、その人が言った。
「え……?」
思い掛けない言葉を聞いて、わたしは思わず聞き返した。
「学校に出るんじゃない」
きっぱりと彼女が言う。
そのとたん、わたしの中で張り詰めていたものが抜け落ちていった。
どっと力が抜けて、立っていられない。幹に背中を預け、わたしは、はぁ〜〜〜…と深いた め息をついた。
「行ける?」
子豚さんが聞く。もちろん「学校へ」ではなく「女子寮へ」という意味なのはわかっていた。わ たしは小さく頷いた。
子豚さんは確認するように首を縦に振ると、
「そんな重い物持つなよ」
と学生鞄を指差し、のしのしとわたしを置いてどこかへ歩き始めた。のったりとしているよう で、動作が速い。彼女はたちまちのうちに小道から消えていた。
置いていかれたとは思わなかった。
むしろ、わたしのことを信頼してくれているようで、嬉しかった。
―――あんな人もいるんだ。
道を引き返しながら、つい今しがた会った人のことを考える。
変な人。
命令調の物言いなのに、全然腹が立たない。むしろ小気味いい。
おそらく上級生なんだろうけど、威圧感とか偉そうな雰囲気はまったく感じなかった。態度 と印象が矛盾しているけど。
なんとなくわたしが一番言って欲しかったセリフを言われた気がする。だから不思議なんだ。
まるで、この世に存在するとは思いもしなかったタイプの人。大袈裟だけど、そんな感じ。
(もう一度会いたい)
そう考えて、クスリと笑う。
たった今、会ったばかりじゃないの。
ふと自分の足取りが軽いことに気がついた。
女子寮へ戻ると、自室へ入る。
昼間だから静かだろうと思ったけど、ここはいつもどこからか人の声が聞こえる。授業には ちゃんと出ているのかしら。
けれど、鞄を置いて室内を見渡すと、なんだかどうでもよくなってきた。
(とりあえず、寝よう)
制服を脱いでパジャマに着替える。
ベッドへ潜り込むと、自分がどれほど疲れているのかに気づいて驚いた。学校へ行く、ただ それだけのことが、こんなに疲れるものだっただなんて。あの人が止めてくれなければ、き っと昨日よりひどい有様だったに違いない。
…後で温泉へ行って、ゆっくり浸かろう。
…授業、初めてさぼっちゃった。
…誰なんだろう、あの人…
うつらうつら考えながら、眠りに落ちてゆく。
わたしが出会った子豚さん。
その人は、遠藤尚子〔えんどう・なおこ〕という平凡な名前の少女だった。
でも、みんなはその人を『大将』と呼ぶ。
3.
「みっともない」
それが、櫟女に合格した時の、父の感想だった。
有名私立を三つも受けて、三つとも落ちた時の、彼のあの目つきは忘れられない。
―――どうしてここまで愚鈍なんだ。
まるで他人よりも冷たい、身内だからこそ浴びせられる、情け容赦のない視線。
「松本さんの娘ですらフェリアスに受かったのに、なんでうちは…」
「お父さん。真理がかわいそうですよ」
母はたしなめるように言ったが、その顔つきはトラブルを起こした人間を迷惑そうに見ている。
ふたりとも(不合格なんてどうかしている)という点では一致していた。
わたしは…とにかくショックで。
ショックというか、頭が真っ白になって。何も考えられなかった。
あれだけ勉強したのに。
部活も遊びも何もかも捨てて必死だったのに。
うちの家系は、というか一族は、みな優秀な人が多い。六大学出身なんて当たり前。アメリ カで学位を取った人間なんてざらにいる。医者や弁護士なんていう、学歴が物を言う世界 で活躍している人たちの集団といってもよかった。だから、有名私立高校程度でおたおたし ているわたしなど、劣等生もいいところ。
中学の頃はガリ勉で通っていたけれど、それだってわたしと同年齢の親戚に比べれば遊ん でいると言ってももいいほどだった。
何より一番こたえたのは、わたしのクラスで、それほど勉強もせず、遊びも学校生活も楽し んでいた、いわばわたしから見れば「落ちこぼれ」に近い人が、わたしよりも良い高校へ合 格したこと。
―――不公平だ。
あんなに努力したのに、神様は見てくださらなかったのだろうか。
やり場のない怒りで、何度もクッションに八つ当たりした。
…もっとも、試験の最中は頭痛がしていたので、ちょっと不安だったんだけど…
だから、目標としていた高校がみんな不合格だったと知った時、わたしの中で、これまで 積み上げてきた何かがガラガラと音を立てて崩れてゆくのが分かった。
そう…まっ平らな道を歩いていたら、突然落とし穴へ落ちてしまったのだ。
なんて間抜けなんだろう。
櫟女を受けたのは、まったくの偶然から。
他の高校のパンフレットに紛れていたのだろうか、見慣れぬ受付用紙があった。わたしは その時受験勉強で頭が一杯だったので、大して疑問に思わず、その用紙にも必要事項を 記入して送った。櫟女学園なんて、それまで聞いたこともなかった。
うちの親も知らなかったらしく、櫟女から受験票が届いた時、はじめはビックリして、次には 烈火のごとく怒り出した。
「なんだこれは…なんでこんな三流校のが送られてくるんだ。いい加減にやるつもりか、お まえは」
親が調べたところでは、櫟女っていう学校は滑り止め専用のいわゆるバカ校らしく、偏差値 も合格する大学も(そもそも大学の進学率も)全然低く、問題にならないほど低レベルだった らしい。
そんなクズ学校のパンフレットがなぜ他校と混ざり合っていたのか今考えても不思議だけ れど、うちの親から見れば、わたしが楽をして受験しようと思ったらしい。無理もない。なに しろあの頃のわたしには、有名私立以外に道は無かったのだから。
けれども、過密なスケジュールの合間を縫ったかのように試験日が空いていたので、受験 票を捨てるのもなんとなくもったいなくて、親に内緒で試験は受けてしまった(受験料が安か ったので、ポケットマネーでなんとかなったことだし)。今から思えば、その時すでにわたしに は試験の結果が見えていたのかもしれない。
そして結果発表が出るにつれ、わたしの両親は日に日に落ち込んでいった。その落胆ぶり は、当の受験生であるわたしよりひどいくらいだった。
おしまいに櫟女の試験結果があり、合格と分かった時、怒るのを通り越して呆れ果てていた 彼らは「もういい。好きにしなさい」と半ば放逐するように入学を許可してくれた。
わたしはわたしで櫟女について色々調べたところ、てんで相手にならないほど格の低い学 校だと知り、ガッカリした。それでなくてもショックなのに…
わたしにとって櫟女とは、屈辱の二文字でしかなかった。
4.
問題の学校へ通い始めると、幻滅はさらに広がった。
自宅からの通学は無理なので女子寮へ入ったはいいが、何もかも自分の知っていた世界 とは勝手が違い過ぎた。
第一、入学式からして変わっていた。
「みなさん、初めまして。当学園の理事長を務めさせていただいております、埴生トメ〔はにゅ う・とめ〕と 申します」
そう言って、恰幅のいい初老の女性が演壇の上からぐるりと新入生を見回し、にっこり笑った。 スーツは着ているけれど、イメージでいえば給食のおばさんの方が似合う。
「わたくしどもは、みなさんのことを、経験はないけれども、すでに一人前の大人だと思って います。みなさんには、ご自分の考えで行動し、人生を決めていく能力〔ちから〕がある、と いうことです」
新入生の何人かが、鼻で笑った。わたしもなんとなく同感。
「当学園は、そんなみなさんのお手伝いをさせていただければ、と考えております。わたくし も齢七十になりますが(生徒たちが驚きでざわめいた。というのも、どう見ても五十台後半く らいにしか見えなかったから)、いまだにみなさんから学ぶことがたくさんあります。どうか 一緒に、楽しく学んでいきましょうね」
トメさん――そういう言い方でいいなら――は軽く一揖すると自分の席へ戻っていった。生 徒たちはちょっと面食らい、一拍子遅れてまばらな拍手を送る。
続いて現れたのが、腰まで届く長い髪の、颯爽と歩く少女だ。ホームベース型といったらい いのだろうか、 顎が四角張っていて、美人の範疇をわずかに外れているのが惜しまれる。
「校長の話は長いというのが常識ですが、みなさんは物足りなく思われたと思います」
開口一番そう言って、笑いを誘う。
「そこで、わたくしこと生徒会長である野々宮純〔ののみや・じゅん〕が補足します。まず、こ の学園は生徒が主体となって運営されていることを最初にお断りしておきます。知ってのと おり櫟女学園には校則がみっつしかありません…ですが、それは何をしてもいいということ ではありません。この、」
と手元の冊子を掲げ、
「生徒会規則というものがあります。これは生徒が自主的に決めて作ったものです。みなさ んには、これに従って日常生活を送っていただきます。びしびし取り締まるので、覚悟して おくように」
やだーっ、とどこからか声が上がり、やや安心したような笑い声があちこちで聞こえた。
「もっとも、生徒会規則はいうまでもなく生徒が作ったものですので、変えることもできます。 みなさんの中で、この規則が不満だ、こういう制度が欲しいと思う方は、どしどし申し出てくだ さい。場合によっては署名を集めて下さってもけっこうです。提案は生徒会で検討するなり、 全校集会に掛けるなりして、検討させていただきます。また、わたしのように生徒会に入って、 内部から変えることも可能です。どうか一緒に権力を振るってみましょう」
再び、場内がどっと沸く。
「そればかりではなく、学園の運営や授業内容についても、意見を述べることができます… できますっていうか、先生方がなにもしてくれないので、こちらで動くしかないのが実情です が」
後ろに座っていた教師たちが苦笑を洩らした。
「運営予算は各期ごとに生徒会へも報告され、こちらで会計に誤りがないかチェックします。 また、新しい施設や用具、老朽化した部分への補修の優先度なども、生徒の意見を反映さ せてもらっています」
(ということは、この人、すごい権力〔ちから〕を握ってるんだ)
わたしは思った。
お金に関することまで口出ししていいなんて、半端じゃない。しかも、学校から貰った予算 を部費として配るなんていうレベルの話ではなく、学園全体のことに関われるのだから。マ ンガや小説で影の権力を握る生徒会長とかがいるが、ここでは文字通り会長が一切の権 限を任されているらしい。
来賓の父母たちがひきつった顔で、なにかこそこそ話している。
わたしは、今日の参観が母のみで、父が来なくて良かったとつくづく思った。
きっと彼なら、間違いなく苦虫を噛み潰したような顔をすることだろう。
「…ここまでの話でおわかりのように、なんにでも手を出せるということは、それなりの義務 と責任を伴う、 ということでもあります。みなさんがどの程度この学園に期待しておられるの かは分かりませんが、少なくとも真剣にやればやるだけ、それなりの見返りをこのわたしが 保証いたします。みなさん、一緒にこの学園を盛り上げていきましょう!」
それだけ言うと、来た時のように、また颯爽と去っていく。割れるような拍手の中で、野々宮 会長が学園長にVサインを送った。どうやら拍手の大きさで勝った、というつもりらしい。
トメさんはちょっと悔しそうに笑って、会長を見送った。
…こんな風だから、櫟女では教師よりも生徒の方が大きな顔をしている。
服装もバラバラだし、授業には出たり出なかったり、廊下は走るわ大声で怒鳴るわ。
一応エリート中学にいたわたしから見れば、こんな事は考えられない。
靴下の裾の折り方から髪型に至るまで(あるいは生活スケジュールの提出など)、あらゆる ことに細々と制約を課してくる、牢獄の看守のごとき教師たち。けれど、それが当たり前だと 思っていたわたしには、 櫟女の生徒たちはとてつもなくいい加減でチャランポランな人間に 見えた。
おまけに授業をさぼってバイト公認って…学校の役割を自己放棄しているとしか思えない。
ようするにわたしは、櫟女学園のほとんどすべてが気に喰わなかったのだ。
そう、こうしてベッドで寝るようになるまでは…
5.
「調子は相変わらずみたいね」
「はい…」
青味がかった白で統一された部屋。
埃を被った人体模型や視力検査用の丸を描いたポスター。
部屋の中央に鉄製のダルマ型ストーブが置かれ、その向こうにカーテンの掛かったベッド が三台置いてある。
机も薬入れの戸棚もすべて古い家具で、補修の跡が騙しだまし使われていることを物語っ ていた。
何もかも古臭く、すえた書物の匂いに似た、保健室。
ただし、そこの主はおよそこの部屋に似つかわしくない人物だった。
「まあ、当面薬の服用は必要なさそうだから、安心だけど」
白衣を着た養護教諭は、長くてほっそりした指で、今咥えていた煙草を吸殻入れで揉み潰 した。つまり、 保険医なのに煙草を吸っているのだ。
長い黒髪を後ろでポニーテールにまとめ、黒枠の四角い眼鏡を掛けている。
タートルネックのセーターにチェック柄のミニスカート。
踵を穿き潰した、汚れて灰色じみているスニーカー。
身につけている物は恐ろしく地味なのに、当の本人はとびきりの美人ときている。
ルージュを薄く引いただけなのに、唇がひどく赤くて、肉感的だ。
鼻梁が高く、頬骨も西洋人ほどではないけれど突き出ている。
眉は細いけれど濃い。
なにより三日月型の目蓋が、罪深いほど扇情的だった。
体型もスマートで、バストも大きい。マンガではよくあるけれど、現実では滅多にいない保険 医を切り取ってそこに置いたよう。
これで心理カウンセラーも兼ねているのだから、ちょっと信じられない。
門脇奈津子〔かどわき・なつこ〕先生は、小首を傾げてわたしを見ていた。
意識してやっているのではないだろうけど、なんともいえない媚態がある。本人が媚を売って いるつもりはまったくない。いわば天然の色気が漂ってきて、一瞬、わたしは何のためにこ こへ来たのか忘れそうになった。
「自分でここへ来られるくらいだから、ある程度の意志力はあるということだし」
声すらもハスキーボイス。
やめたのかと思っていたら、また箱から一本取り出す。
様になる手つきでジッポーのライターを点火し、煙草へ移す。紫煙をくゆらせながら、
「運が良かったね」
「は?」
「遠藤に会えて」
「遠藤…」
「あなたが出会った先輩のこと」
「ああ…遠藤、っていうんですね。あの人…」
「そう。みんなは『大将』と呼んでいるけれど」
「聞いたことあります」
時折、生徒たちの会話に出てくる『大将』という言葉。
よほどの有名人なのだなと思っていたら、彼女がそうだったのか。
わたしはあだ名のイメージがあまりにもピッタリなので、思わず笑いそうになった。
「―――ふうん?」
門脇先生がおもしろそうに首を傾げる。
「――え?」
「いや、大将は大丈夫なんだね、あなたは」
言外に(他の子には近寄れないけれど)との意味を含ませながら。
「はあ…その」
そうなんだろうか。
よく分からないけど、あの子豚のような顔を思い浮かべると、なんともいえない暖かい気持 ちになる。なんていうんだろう…安心して寄りかかれる木か岩のようで…
「ま、それはともかく、だ」
先生はやや厳しい表情になり、
「自分でも自覚できなかった症状が現れたというのは、やはり問題がある」
「………」
「うつ病って聞いたことあるわね」
念を押すように聞いてきた。
「はい…でも」
(まさか自分が)そんな言葉が頭をよぎる。
精神病?
わたし…そんなに変かな…
得体の知れない影がにわか雨を降らせる雲のように心の中へ広がってきた。
「そんな顔をしなくてもいい。うつ病は風邪みたいなもの。気をつけていれば必ず直る。ただ、 風邪もこじらせればどうなるか分かるわね」
「はい…」
―――だけど。
体はなんともないのに、何をどう気をつければいいのだろうか。
それより何より、両親がこの事を知ったらと思うと、それが不安だった。
「あの…それで、何をすればいいんでしょうか」
とりあえず質問すると、
「何もしないこと」
「…え?」
「当分、授業や部活には出ないように。暇なら女子寮の北館へ行って、マンガでも読んでい なさい」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
いささか混乱して、わたしは遮った。
「何もするなって…それ、治療法でもなんでもないじゃないですか」
「うむ」
門脇先生は肯定するように頷き、
「そうね…何もなし、っていうのはかえって不安か。なら、日記をつけなさい」
「日記?」
「メモでも何でもいい。とにかく、ここしばらくはボンヤリ過ごして、心に浮かんだことやふと 思い出したことを書き留めること。いいわね。どんなつまらないことでも、書いておくの。『書 く』っていう行為が肝心」
「はあ…」
「心の病のやっかいなところはね、体は健康なところ。だから、みんな『自分は大丈夫だ』と 思い込みたがる。実際はそれどころじゃないんだけれど」
「でもわたし、精神異常者じゃありません」
思わず声を荒げると、先生はいなすように、ふと笑った。
「あなたは、風邪を引いた人間を異常だと決めつけるの?」
「だけど…」
門脇先生は深くタバコを吸うと、ゆっくり煙を吐き出した。白い煙の輪がひとつふたつ宙に 浮かぶ。
「とにかく、そうしなさい」
(子供だと思って馬鹿にして)
腹を立てながら、わたしは校舎を後にした。
門脇さんはすぐに先生方へこの事を言いふらしたらしく、授業を受けようとしたわたしを担 任の先生が止めた。
「先生の指示には従うものよ」
ふだんはちっとも先生らしくないのに、担任の鎹奈緒〔かすがい・なお〕先生はそう釘を刺した。
結局、手も足も出ず、女子寮へ戻るしかなかった。
玄関を過ぎた頃からまた体が重くなり、引き摺るように四人部屋へ入る。
起きていようかと思ったけど、何をする気も起こらない。ただ、だるかった。
仕方なくベッドへ潜り込み、ひたすら時間が過ぎるのを待つ。
―――拷問だ。
なにか気に入らないことでもしでかして、よってたかってこんな牢獄へ閉じ込められてしま った。
現実にはそうじゃないと分かっていても、気分は完全に囚われの身。
(こんな学校、受かっても来るんじゃなかった)
どんなにみじめでも、浪人して私立へ再挑戦していれば。そして、ゆくゆくは有名大を出て、 エリートと 結婚すれば。そうしたら、この身に課せられた荷を下ろせるのに。「あの時は大変 だった」って笑い話で 済ませられるのに。そうだ…きっと、そう…
「……泣いてるの?」
「―――!」
驚いて声の方を向くと、朝吹さんがこちらを覗き込んでいた。
頬に手を触れると、濡れている。いつの間に?
「大丈夫?」
手を伸ばしてくるので、思わず振り払った。
「―――佐上さん?」
「なんでもないったら」
悲しみより、みっともない現場を見られた腹立たしさが先に立つ。
どうしてこの人はいつも…
「お願いだから、心配しないで」
「でも」
「やめて!」
ビクッ、と朝吹さんが引っ込む。いい気味だ。
神経がピリピリとささくれ立つ。得体の知れない怒りが湧いてきて、わたしは目の前の人へ そのままぶつけたくて仕方なかった。
「………気分が良くないの。…ありがとう…」
自分でも白々しいほど誠意のこもらない『ありがとう』。言わなかった方がどれほどいいだろう。
朝吹さんはしばらくまじまじとこちらを見ていたが、やがて身を翻して部屋を出て行った。よう やく一人になれた。
―――こんな調子が続くんだろうか。
ぼんやりとベッドの天板を眺めつつ考える。
この調子では、いずれこの部屋の住人たちと誰ひとり友達でなくなるに違いない。それは… 構わない。なんだかもう…友達とか、なんとか…全部うざったい……
いっそ、死んでしまえば楽なのに………
…どす、どす、どす…
(…地響き?)
違う。
足音だ。
それにしても、なんて音。
ブルドーザーじゃないんだから。
どすどすどす、はどんどん大きくなり、ついにわたしの部屋の前まで来ると、ガチャリとドア が開いた。
(…………あ!)
あの人だ。
あの、子豚のような…ええと、遠藤先輩。
『大将』。
遠藤さんは部屋へ入るなり椅子を一脚引き寄せ、わたしのベッドまで持ってきた。そして逆 向きの姿勢で座ると、背もたれに両腕を乗せて寄りかかる。視線は片時もわたしから離れ なかった。
わたしも彼女をずっと見ている。
見つめ合ったままなのに、少しも息苦しくはなかった。
すっ…と太い腕が伸び、ころりとした太い掌がわたしの額に乗った。わたしは、思わず目を 閉じていた。
…あたたかい
大きくて、やさしい手…
触れている部分から不思議な体温が体の奥へ染み入ってくる。わたしは…深く、息をついで…安心の笑みを漏らしそうになった。
そのまま幾ばくかの時が流れる。
遠藤さんの手が離れた時には、もうあの不安な気持ちはどこかへ消えていた。
厚ぼったいまぶたの下で、彼女の瞳が微笑む。
「―――しばらくさ、一人でいたいだろ?」
そのものズバリ、といった感じ。
わたしは素直にコクリと頷いた。
「よっしゃ」 ガチャリと椅子から立ち上がると、どすどすと歩き出す。部屋を出掛けに、やや離れたところ で見守っていた朝吹さんの肩をポン、と叩いていった。
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