11.
「…そういうわけで、クラジミアは結構うつりやすいし、うつってもほとんど自覚できないのね。 で、気づかないし、また別の男の子とセックスすれば、その子にもうつる可能性がとても高い の。気づいても病院へ来ない人が多いし、『大したことないだろう』って。ちょっとアソコが痒い かな、とか、下り物が匂うな、程度だから。…でもね、クラジミアはほっとくと怖いのよ。卵管が 癒着して受精できなくなったり、HIVに感染する確率がとても高くなる。つまり、クラジミアに感 染すると最悪の場合子供が産めなくなったり、エイズになって死亡することもありうるってこと ね。 ここで一番困るのは、たとえ病院へ行って薬を貰っても、きちんと服用しなかったり、症状がち ょっと軽くなると安心して治療を止めてしまうこと。みんな病気持ちだなんて思いたくないし、 面倒だし、彼氏に知られたら、求められたらって、安易に考えるの。これが頭の痛いところで…」 教壇にはざっくりしたサマーセーターにスカートを履いた中年の女性が立っている。彼女が熱 弁を振るうのを、みんな熱心に聞き入っている。わたしも一番後ろの席で講師の話す内容を 頭へ刻み込んでいた。 今は『社会道徳』の授業。というより、特別講義といっていいかもしれない。
今回の講義は『性病と思春期の女性』がテーマ。
講師は産婦人科の先生だった。
つまり、現役のお医者さまが現場の体験を踏まえて話してくれているというわけ。
「…それでね、この間も女子高生が二人して来て、そのうちの一人が『子供出来たから堕ろ してくれ』ってアッサリ言うのよ。こちらも色々事情があるっていうのを知ってるから、なんで もかんでも『堕ろすな、 産め』って言えないわけ。でもー、犬や猫じゃあるまいし、そんな簡 単に首を縦に振れるわけないじゃない? だから『まずはご両親と相談しなさい』って言っ たら逆ギレされちゃって。付き添いの子が『みんなやってるし、こちらは客なんだから、いち いち文句を言われる筋合いはない。ここでダメなら他で堕ろす』 って突っ張るのよ。他でっ て言ったって、医者ならみんな同じ対応をするでしょ。どこも取り合ってくれなかったら、そ れこそ大変だから、こっちも散々説得して、とにかく診療だけでもってことで。産む産まな いの前に、そういうことで余計なトラブルを…」
現場で働いている人がしゃべるせいか、話の内容に説得力がある。不謹慎な言い方だけ ど、なかなか面白い。
『社会道徳』なんてお堅い名前だけど、この授業は『裏の必修科目』と呼ばれるほど、生徒 たちにとっては重要なものらしかった。
この前は『クレジットカードの使い方と自己破産』。
その前は『ドメスティック・バイオレンスの現状と課題』。
それより前は『高卒者の雇用と現代社会の労働状況』。
ずいぶん物々しいが、わたしたち櫟女生にももしかすると関係のある、社会全般について の話をするのが目的らしい。
わたしのいた中学では『道徳』というと宗教とか哲学とか、学生としてどうあるべきかを語り 合うという、それこそ道徳的で退屈な授業だった。でも、ここのはえらく現実的で生々しい。
難しそうな題目が多いけど、生徒たちの評判はかなりのもの。
講義は毎回特別講師として現場の人間を呼び、プロの意見を述べてもらう。それゆえ教科 書を棒読みするような無味乾燥なものではなく、それどころかこちらが思わぬようなエピソ ードを披露してくれる。なにより自分の仕事に誇りを持っているし、仕事上で相手を説得す る必要から、人の気を逸らさない話し方を心得ている。そんなわけで、ふつうの授業よりも 段違いに面白いのだった。
自然、話す方も聞く方も熱が入るというものだ。
こんな、学校としてはちょっと変わった授業を始めたのは、実は生徒たちからの要望だとい うから驚く。
「要望だけじゃないわよ。次は誰を呼ぶか、わたしたちでちゃーんと目星をつけてるんだから」
ある時、一緒になった栗花楽さんが自慢げに説明してくれた。
「目星って…先生方が講師を呼ぶんじゃないんですか?」
「それはあくまで表向き。講師を決めるのはわたしたち生徒の方でね、リクエストを募って 生徒会で決定するの。時にはこちらのコネを使って、独自にコンタクトを取る時もあるわよ。 その時は事後承諾、ってことで」
「でも、そんなことしたら叱られないですか? 生徒が授業の内容を決めるなんて」
「ぜーんぜん。だって、黙ってたら先生方、なんにもしてくれないんだもの。知りたいことが あるなら、こっちから動かなきゃ誰もやってくれないし」
そりゃそうだ。
カードローン地獄について語る授業なんて、そうそうあるもんじゃない。
「講師の人もね、わざわざ女子高生が話を聞きたいっていうんで、けっこう喜んで来てくれ るのよ。こっちが貧乏だってわかると『講演料はいらない』って言ってくれるし。だから、こち らも自家製の野菜とか送って、精一杯のお礼をするの。そうすると次回からも呼びやすく なるし、ほんと、ありがたいわよ」
「それはそうですけど…よくできますね、そんなこと」
「そういう時のコツは先輩が伝授してくれたし、こっちだって必要だと思うからやってるしね。 熱意さえあれば、なんとかなるものよ」
自信あり気な栗花楽さんが、わたしは心底うらやましかった。
終業時間のベルが鳴る。
講義を終えた産婦人科の先生のもとへ、幾人もの生徒たちが群がる。質問したいことがあ るのだろう、 みんな熱心だ。わたしの中学では、こんな光景は滅多に見られなかった。た ぶんだけど、こういう講義に参加しても、時間が来ればそそくさと立ち去る生徒ばかりでは なかったろうか。まあ、そもそもこんな授業なんてやらないんだけど。
講義の後に一時間ほど講師と有志の生徒の懇談会があるらしく、生徒会の役員がてきぱ きと机や椅子を移動させている。わたしは邪魔にならないよう足早に教室を出た。
校舎の外へ出ると、気持ちのいい青空が広がっている。
両腕をうーんと伸ばして、深呼吸。
もう七月。
辺りの緑が、ずいぶん色濃くなってきた。
空気の中に真夏の熱気が少しずつ忍び寄ってくる。
以前なら季節の変わり目なんて気にもしなかったのだけど、今では変わりゆく風景を眺め るのが好きになりはじめていた。
梅雨の終わりが見え始めると、アジサイたちは徐々に精彩を欠いてきた。
まるで長雨の間、人々を慰めてきた役割が終わったかのように、明るい日差しの下で色褪 せてゆく。
(ありがとう)
思えば、この子たちにはずいぶん助けられた。
憂鬱な日は必ずといってよいほど、窓の外のアジサイを眺めた。
薄曇の中で輝きを放つ不思議な花は、まるで真っ暗な心の中に咲く唯一の光のようだった。
女子寮への道を戻りながら、ぶらぶらと歩き出す。
相変わらず調子は良くないけど、わたしはまた学校へ通うことができるようになってきた。 …通うっていっても、一日中校舎にいられるわけではなく、この授業みたいに興味本位で 参加するだけなんだけど。
それでも勉強への意欲はわずかながら戻りつつある。
個室にいる時は朝吹さん特製のレポートに目を通したり、いままで習ったことをざっと復習 している。遅れているといっても一学期の半分くらいなので、夏休みに集中して勉強すれ ば、二学期までには十分追いつくだろう。
けれど、わたしを勉強へ駆り立てているものは、もう受験とか学歴とか、そういうものじゃな い。
言葉にすると難しい。
強いて言うなら、櫟女のみんながうらやましいから、かな。
みんながみんな勉強に励んでいるわけじゃないけれど、誰もがそれぞれに好きなことをや っていて、そのために何をすべきかもきちんと分かっている。その迷いのなさというか潔さ が、わたしを揺さぶるのだ。
だから、今は何の役に立つかわからないけど、とりあえず自分のやれることをやっておか ないと気が済まなくなっていた。
焦りとか不安じゃなくって…もっと純粋な気持ち。
『ワクワクしたい』って気持ち。
もしかしたら、ここでならそれが出来るかもしれない。
確信はないけどそう思う。
考え考え歩いていると、道の曲がり角で向こうに誰かが見えた。
遠藤さんだ。
「遠藤さ…」
声を掛けようとしたわたしは、上げかけた手を止めた。
遠藤さんは、一人ではなかった。
彼女よりもはるかにちいさな少女が隣にいる。
髪をちょこん、と両脇にツインで垂らしたその子は、どう見ても小学生。
まるまるした頬っぺたが赤いリンゴのようで、笑うとドングリのようなまなこがクルクル動く。
リンゴちゃんは盛んに遠藤さんへ話し掛けている。大将も面倒がらず、いちいち彼女のマシ ンガンのごときおしゃべりに頷いていた。
ここからじゃ何を話しているのか分からないけど、その子の横顔を見ればすぐにわかること がある。遠藤さんの腕に自分のを絡め、輝くばかりの笑顔で夢中になっておしゃべりする …そう、彼女は恋をしているのだ。すぐ横に立つ年上の少女に。
リンゴちゃんはちいさなリボンつきの包みを遠藤さんに手渡した。察するに、手作りのクッキ ーか何かだろう。
かわいい掌でちょいちょい、と大将を差し招く。遠藤さんがちょっと前かがみになると、やに わに頬へちゅっとキスして、それからふいっと去って行った。
遠藤さんは『やられた』といったように頭を掻いている。そして、わたしに気がつくと、照れ隠 しにいっそう頭を掻いた。
「見られちゃったか」
「今のは彼女ですか?」
ニコニコしているわたしへ困ったように頷き、
「嫁に来たいんだとさ」
あの子が去っていった道の向こうを、まぶしそうな目で眺めている。
「ほんとにお嫁さんにするの?」
ちょっぴり意地悪げに尋ねると、
「18になってまだその気があったら来い、って言った」
存外まじめな様子で答える。
「―――遠い先だよ」
「わからないですよ。意外とすぐかも」
「…そうかなあ?」
遠藤さんは嬉しげに、それでも迷ったみたいに言う。彼女でもこんな顔をするんだ。わたし は、大将の意外な一面を覗いて、この人へいっそう好感を募らせた。
並んで歩きながら、次に畑へ植える野菜のことだの、この前来たイタリア人のおかしな料 理研究家のことだの、ぽつりぽつり話す。遠藤さんは特にわたしの『病状』を聞かないけれ ど、なんとなく分かっているらしい。
道を出て寮の前庭に来ると、いきなり頬を掴んできた。
むにゅっ、と太い指で体脂肪を測るようにつまむ。
「む」
「…どうですか?」
「よし」
パン、と背中を叩いて気合を入れられる。
遠藤さんに叩かれると、なんとなく(がんばろう)という気になるから不思議だ。
「よう」
彼女が手を振った先には、鞄を抱えた朝吹さんがいた。あ、なんか怖い顔してる。
「…機嫌悪そうだな」
わざと耳打ちしてくるなんて、この人もけっこう意地が悪い。
「…ですね」
わたしも同調する。
わたしたちはわざとっぽく咳をしながら、彼女のところへ行った。
「―――じゃあな。さっきのこと、誰にも言うなよ」
遠藤さんが念を押して去って行く。
「ええ。誰にも言いませんから」
わたしは笑いをこらえながら、彼女の背中に言った。
「…さっきのことって?」
目をほそーくして、朝吹さんが聞いてくる。
「あ、ダメダメ。誰にも言うなって、たった今言われたばかりだから」
「いじわる」
わたしと朝吹さんは女子寮の玄関をくぐった。
「そういえば佐上さん、夏休みはどうするの?」
「えっ………そう、ね…」
「実家へ帰る?」
「いえ…それは」
わたしは口ごもった。
彼女に指摘されるまで、全然考えていなかった。
なんだかずうっと女子寮に居るのは決定済みだとばかり思っていたから。
(……帰る…)
自分の育った家だから当たり前だと思っていたけれど。
今、頭をよぎったのは、暗い予感だった。
―――きっと戻れば、また勉強漬けだ。
遅れを取り戻すのだとばかりに、朝から晩まで急かされるに違いない。
そう考えると、にわかに気分が重くなる。
「…もし、だけど。もし帰る気がなかったら…一緒にここにいない?」
「………えっ?」
「わたしはやる事があるから、夏休み中も寮に居るつもりなの。で…佐上さんも…その」
「ああ…」
わたしは目をしばたたいた。
(そういう選択肢もあるのか)
でも、どうやって親を納得させよう。
考え込むわたしに勘違いしたのか、
「べ、別に下心があって言ってるわけじゃないのよ。…いえ、下心は…ほんのちょっぴり、あ るんだけど…」
鞄を胸に抱き締め、モジモジしている。かわいい。
「ふ、ふたりで夏休みって、た、楽しいかな…とか」
「そうね…」
わたしは、まっすぐに彼女を見つめた。
うん。
悪くない。
友達と夏休み…初めての。
なんだかとても楽しそう。
「わたしも…そうしたいな」
「…ほんと?」
朝吹さんの顔に喜色が浮かんだ、その時。
「あ、ちょうどよかった。佐上さーん」
事務室の内窓が開いて、庶務課の風祭さんが顔を覗かせる。
「はい?」
振り向くと、
「電話来てるわよ。そこの2番使って」
隣の電話コーナーを指差す。
「あ、はい。どうも」
玄関の三和土を上がって、受話器を取る。
「―――はい、もしもし」
「どういうことなんだ」
その瞬間。
すべての時間が凍りついた。
これは…
「学校へ行ってないそうじゃないか」
「…………」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされる。
聞き間違いようのない、声。
冷徹な―――人を見下すのに慣れきった声。
(終わった)
聞いた瞬間、そう思った。
この学校で築いてきた、ささやかな努力。
新しい道。
やっと心を開けるようになった――わたしの、友人たち。
この女子寮。
すべてが、最初の一声で崩された。
あっさりと、まるで砂のお城を踏みにじるように。
「母さんから聞いたぞ。様子がおかしいというので、調べてみたらこうだ」
「…しらべてみたら、って…」
乾いた声で反芻する。
思考は停止していた。
何も考えられない。
彼の前では、そうせざるを得ないのだ。
長い長い、習性として備わってしまった性質。
訓練された犬の行動。
「わたしの知り合いのお嬢さんが様子を見に行ってくれたんだ。制服も着ないで、他の生徒 と遊んでいたそうだな」
(…ああ)
痺れた頭で事実だけを理解する。
櫟女の女子寮には、他校の生徒がよく遊びに来る。昔からの友達の場合もあれば、色々 な縁で知り合った人も。とにかく、よその学校だからといって排他的に接するような所じゃな い。ゆえに、潜り込も うと思えば、誰でも簡単に出来るというわけだ。
たぶん朝吹さんあたりなら、こんなスパイ行為に激怒するだろう。
けれど彼の手口を知っているわたしには、意外でも何でもないことだった。
「どういうことなんだ」
繰り返し問い詰める。その口調には抑えた怒りが充満していた。
彼の怖いところは、怒りを抑えてしまえるところ。そして、その怒りを別の手段へ置き替えて しまう…そう、例えば、相手の弱みにつけ込むとか。
ましてや、わたしは実の娘。
首根っこを押さえるなど造作もなかった。
「自分が何をやっているのか分かってるのか。学生の本分を忘れ、勉学を忘れ、よろしくや っているというわけか…まったく、これだから。少し目を離すとな」
鈍い怒りが腹の底でちらりと燃えた。
遠回しに櫟女を侮辱している。
わたしの大切な人たちを。
けれども、唇が微かに震えるだけで、何も言うことは出来なかった。言えば言ったで、その 先はどうなるか痛いほどわかっている。鉄の論理で理詰めにされ、散々叩かれるに決まっ てる。言葉がどれほどの暴力になりうるか、彼は知り尽くしていた。
「そこを出るんだ」
「え…………」
「“え”じゃない、転校だ。決まってるだろう。おまえの酔狂につき合ってやったのが間違い の元だ。子供のくせに勉強をさぼりたい一心なんだろう。浅はかだぞ、それは」
違う。
違う。
さぼりたいんじゃない。
怠けたいのでもない。
考えたいんだ。
考える時間が欲しい。
自分のことを、
世界のことを、
これからどうすべきかを。
誰にも邪魔されずに。
「いいか、すぐ行くからな。準備しておけ」
「準備って…」
「勉強の用意だ、とぼけるな! どれだけ遅れていると思っとるんだ。丸々貴重な一学期を 無駄にして、 それで大学に受かるほど世間は甘くないんだぞ。今度の所はレベルは低い。 が、そこの馬鹿学校よりは遥かにましだ。そこで死ぬ気になって勉強すれば、おまえなら 東大も夢じゃない」
―――飴と鞭ってわけか。
彼なりに気を使っているつもりだろうか。有難くて涙が出る。
「いいな、すぐ迎えに行くからな。おい、聴いてるのか!」
「…………はい」
「ったく…どこで道を間違えたんだか」
―――ガチャリ。
余韻もなく切れる。
残されたのは、受話器から漏れる冷たい通話音だけ。
「…佐上さん?」
恐るおそる、といった感じで朝吹さんが問い掛ける。
「誰から…?」
「……ああ」
受話器を、戻していなかった。
ゆっくりと、フックへ掛ける。
指がこわばって接着剤で貼り付けたよう。一本一本、剥がすように離した。
「顔色が悪いわよ」
「そう…」
笑いたくなった。
これで血色が良かったら、それこそ変だ。
…ううん、本当に笑っていた。
クックッ…、腹の底から笑える。
(―――バカバカしい)
つまりはそういうことだ。
電話一本で壊れてしまう世界。
薄っぺらなユートピア。
現実なんてこんなもの。
「佐上さん…どうしたの」
「―――どうしたの…?」
隣にいる少女を見る。この人は…ああ、朝吹とかいう人。けど、その名前に今は何の意味 もない。どうせ、 ここを出てしまえば関係なくなるんだから。
二度と会えなくなる。
「別に、なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないわよ」
「じゃあ、どんな顔なの」
どす黒い怒りが込み上げる。
いままで凍りついていた時間が、急に溶けて戻った。
「どんなって…顔色が」
「へえ、顔色ね」
「ね、何があったの?…ひょっとしてご家族の方?」
「それがあんたに何の関係があるの」
「…なんですって」
「何の関係があるかって聞いてんのよ」
目を丸くしてわたしを見ている。口元が間抜けっぽく開いていた。
次々と体の奥から湧き上がる衝動に憑かれ、まるで見当違いな相手に、わたしは言葉を吐 き捨てた。
「電話の相手が家族だからって、それがなんなのよ。知りたい? じゃあ、教えてあげる、 『朝吹さん』。 わたしの父親よ。ファザー。パパ。どう、分かった?」
「それで…?」
「それでも何もないわよ!」
驚くほど大声が出た。
(わたしってけっこう声が出るんだ)
場違いな冷静さでそう思う。
「―――まだ分かんないの? 出てくのよ、ここを。櫟女を」
「そんな…急に」
「急もお灸もないわよ。あの人が出ろって言ったら、そうなるのよ。そういうふうに出来てる のよ、世間ってのはね!」
憎しみを込めて『元』親友を見る。
そう、間違いなく憎んでいた。
のほほん、とここで暮らせる人間を。
わたしとはまるで別な世界で羽を伸ばせる人たちを。
「そんな世間ってないわ。そんなの間違ってる」
「お嬢さん」
皮肉を込めて冷ややかに言う。
「正しいとか間違ってるとか、そんなことはどうでもいいの。大切なのは力があるかってこと かどうかよ。他人よりも上にいるか下にいるかってことなの、おわかり? あんたが能天気 に世の中の道理を説いたって、鼻をかむティッシュ一枚にもなりゃしないのよ。…ったく、ヘ ドが出るったらありゃしない」
「…佐上さん!」
「その友達ぶった真似をやめなさい!」
(あんまりだわ)という顔面へ、容赦なく叩きつける。
「うんざりよ、ここの流儀ってやつ。なんなの、このぬるま湯みたいなダラダラした生活。呆 れて物が言えやしない。大体ね、わたしはこんなレベルの低いバカ校に入学するつもりな んてさらさらなかったの。 そう、予定外ってやつ。
…でも、父が連れ戻してくれるっていうし、これで安心できる。やれやれだわ、ったく。あん たたちみたいなのとつき合ってたって思うとゾッとする」
その頃には近くに居合わせた女生徒が幾人も集まって、遠巻きにしていた。中には顔色を 変えて掴みかかりそうになってる子もいる。そうだ、その調子。
すべての人に憎まれてしまえばいい。
壊れちゃえ。
わたしに手の届かないものなんて。
キラキラ光るおもちゃなんて、踏み砕け。
「佐上さん」
「―――汚い手で触るな!」
肩に掛けられた手を振りほどく。
頭が燃えるように真っ赤で、ここがどこか一瞬忘れていた。
「やめてって言ってるでしょ!同情なんてまっぴら!吐き気がするのよ、あんたたち!どう せ救えやしないくせに!なんにも変えられない、子供のくせに!笑わせるなよ、生徒が 主体だ?ごっこ遊びなら公園の砂場でやってろって!」
廊下の向こうから、地響きがした。
あの人がやって来る。
きっと、叱られる。
軽蔑される。
(構うもんか)
失うなら、すべてを、今ここで。
遠藤さんは―――大将は、人の輪を押しのけると、すぐ目の前に立った。
いつもと変わらず。
まっすぐに、わたしを見ている。
それが、あまりにも普段どおりなので、わたしはかえって逆上した。
「…へーえ、大将のお出ましってわけ?大したもんね、『大将』だって。笑っちゃうよね。なん だかんだって、あんたたちって変わってるわ。そりゃあ認めるわよ、おもしろところ。…でも ね、忘れてると思うけど、 ここは世間じゃ三流校で通ってんのよ。あんたたちがいくら頑張 ったって、しょせん悪あがきでしかないの。格が違うんだよ。ここを出たって、一生バカに されて生きてくしかないんだ。分かってる…?分かってんのかって聞いてんだよ!」
混乱していた。
―――どうしてそんなに。
ふつうの顔をしているの?
ねえ、大将。
遠藤さん。
ほら、みんな怒ってるじゃない。
今にもわたしを吊るし上げてリンチにしそうじゃない。
どうして、そうやって腕を上げて止めるの。
なんで…そんな目をしているの。
怒ってよ。
蔑んでよ。
わたし、
あなたが思うほど、
良い人間じゃない…
「ヘドが出そうなんだよ、おまえらが!あそんでんじゃねえよ!わたっ、わたしが、どれだけ 必死になったと思ってんだよ!ひっし、って、それが、なんだその目は!やんのか、おら! 来いよ、こら!あんたらなんか、怖くな…くそっ、こわかねえよっ、くそおおおおっ!」
(バカみたい)
みっともない。
笑える。
お笑い大賞だ。
叫べば叫ぶほど迫力がなくなってゆく。
それなのに、停められなくって、ズルズルと落ちてゆく。
なんてざまだ、真理。
「――ふざけんな、こんちっくしょう!嫌いだ!みんな嫌いだああああっ!だいっきらいだあ あああああああああ!ちくしょ、…ちく、くそっ……ば、ばかにしてっ…!!こんやろあああ っ!うああああああああああああああああっ!!!」
もう、何を言ってるのか、自分でも分からなかった。
思いつく限り罵詈雑言を吐いて。
息が続くまで。
続かなくなったら、また息を吸って。言葉を吐いて。吐いたら、また吸って…
呼吸と同じくらい、言葉の汚物を撒き散らして。
―――それなのに。
誰も、手を出さない。
まるで、そこにどっしりと構えている大将へ従うように。
いつの間にか、辺りは静まり返っていた。
わたしが吐いても吐いても、言葉は虚しく吸い取られてゆく。
空気を殴るように、相手のいないボクサーのように、わたしの拳は空回りしていた。
と。
ずいっ、と遠藤さんが前へ出る。
(殴られる)
あの太い腕で。
反射的に身を硬くする。
あの拳骨で殴られたら、顔が変形するだろうか。
それでもいい。
それがいい。
もう、いい…
ぐいっ、
と肩を掴まれる。
そして、
あの太い腕が、
背中に廻された。
「…………………………あ」
わたしは、酸欠の金魚のように、くちびるを震わせた。
(そんな…)
抱き締められている。
彼女が、しっかりと、わたしを抱き締めてくれる。
あたたかだった。
あの時、額に当ててくれた掌。
少しも変わらない。
崩れそうな…ううん、もうとっくに崩れてぐちゃぐちゃになっているわたしを………彼女が…………… こんな……わた…し……
言葉にならなかった。
もう。
声が…
声とは呼べないほど…
涙があふれて…
もう…なにもわからないほど……
泣いて、ないて…
わたし…
幼児のように、泣いて…
子豚さんの肩にもたれかかり、何も考えられなくなるまで、お日様の匂いのするジャージ に顔を埋めて…
そうして、何も分からなくなって………
12.
目が覚めたら、自分の部屋だった。
夕陽が窓から差して、部屋中を真っ赤に燃やしている。
音のない、透明な炎。
布団の中でわたしはぼんやり天井を見上げた。
誰が掛けてくれたのか、いつもの丹前に身を包んでいる。
人の気配がするので、横たわったまま首を廻すと、そこに朝吹さんがいた。
正座して、窓の外を眺めている。
その目は、沈みゆく夕陽を、挑むように見つめていた。
その端正な佇まいが、いままでになくきれいだった。
「…わたしって最低ね」
かすれた声で、彼女へ話し掛ける。
―――もう。
(何もかも失ってしまった)
大切だったはずのものを、自ら粉々に砕いた。
一番傷つけたくない人へ、切りつけた。
ズタズタになった、わたしの人生。
(哀れなもんね)
それしかない。
「あなたを守るわ」
朝吹さんが言った。
「………え」
言葉の意味がわからなかった。
彼女は、端座したまま、こちらを向いた。
一瞬、息を呑むほど、瞳が燃えて見える。
「あなたを、守る」
はっきりと、一語一語、区切るように言う。
「転校なんかさせない」
「朝吹さん…」
何といっていいのか分からなかった。
彼女の決意が、あまりにもまっすぐだったから。
「佐上さん」
居ずまいを正し、
「一度だけ聞くわ。あなたは、この学校に居たい?」
「………」
「それとも、出たい?」
そこには、いつものような、どこか遠慮がちで弱々しい部分がまるでなかった。
薙刀を持たせればすぐに振るえるような、女武者を思わせる風情。
何かが彼女を、決定的に変えてしまったのだ。
「佐上さん」
同情のかけらもない、厳しい声音。
だから、わたしは正直に言うしかなかった。
「………居たい」
「…………」
「…居たいわ……ずっと居たい……あなたや、遠藤さんや、みんなと…」
「そう」
頷くと、
「立てる?」
それは質問というより、ほとんど命令だった。
わたしがよろめきながら立ち上がると、手を貸して肩を支えてくれる。
「いいこと、これだけは覚えてて」
「…ええ」
「わたし、あなたが好きよ。誰よりも」
きっぱりと言い切る。
「だから、あなたをあんな風にさせるものなんて、絶対に許さない。誰であろうと」
「朝吹さん…」
「行きましょう」
二人三脚の要領でドアを開けて、外へ出る。
わたしを引き摺るように、北館のロビーへ。
体中の力を失って干からびていたわたしは、何の抵抗も出来なかった。
ロビーにみんながたむろしている。
わたしを見て、集まってくる。
怒ったような顔で、周りを取り囲んでいた。
わたしは、一度ゴクリと喉を鳴らし、判決を待った。
西条さんが先頭に立つ。
そして、わたしの足元へバケツをガシャン!と投げつけた。
「――― 一週間、西館のトイレ掃除!」
高らかに宣言する。
「……………は?」
わたしは思わずキョトンとしてしまった。
どんなことを言われるのかと思いきや、トイレ…掃除?
…それだけ?
「罪状は、」
わたしのとまどいに構わず、西条さんは人差し指を上げ、
「みんながふだん思っていることを、思いっきりよく吐いたこと!以上!」
「え……?」
「まったく、」
青井という先輩がニヤリと笑った。
「こっちが我慢しているというのに、あんなに気持ちよく怒鳴られては敵わないな。バカ校と いうのはまったく同感だが」
「そうだよ、ずるいよ」
加賀沖という一年生が腰に手を当てて憤慨する。
「いつかあたしが言ってやろうって思ってたのに、先越されちゃったし」
「思っててもゆーな」
阿刀田先輩がつっこむ。
「これは許せないよね」
「つか、レベルが低いってセリフはあたしのよ。みんな、あたしのレベルの高さを知らないか ら…」
「ぐあーっ、くそう!あの時試験に受かってりゃ、こんな所で畑なんざ耕してないんだーっ!」
「バイトなんてしたくなーい!親から金ふんだくって遊びたーい!」
「こんな山奥じゃ彼氏もできねーよっ!」
「あーっ、なんかもう…なんかもう、カラオケで怒鳴りたいよね!」
「いっそ甲子園の場内アナウンスとか!」
「全国大会でぶちまけるかあ!?」
「街頭演説ぜよ!」
「選挙カー借り切って!」
「つかパレードしようぜ!」
「こーら、あんたたち!やめなさい!本気でやりかねないんだから!」
喧々囂々、一大愚痴オンパレードになっている。
わたしは呆気にとられていた。
なんて…みんな。
なんて人たち。
「…と、いうわけで」
ポン、と西条さんが肩を叩く。
「このよーに、始まると収拾がつかなくなるから、あなたの罪はとおっても深〜〜〜いのだ」
「…は、はあ」
「これを期によく反省し、本音は人のいない海に『バカヤロー』と怒鳴るので済ませること」
「西条さん、ここ山ん中ですって」
三枝さんが冷静につっこむ。
「それに西館のトイレ掃除は、今週は西条さんの担当のはずですけど」
「うるさいわね。いまいいとこなんだから邪魔しないで」
(これが? いいところ?)
思わず笑いそうになる。
…どす、どす、どす。
足音が近づいてくる。
「大将……」
「よく寝たか?」
遠藤さんは、いつものように柔和な眼でそう言った。だから、
「うん」
素直に、頷けた。
「よし」
頭をグリグリなでてくれる。
そこへ新田さんがぬうっ…と現れた。
「…食べる?」
頭ひとつ抜きん出た長身を屈め、自慢のトマトを差し出す。
わたしはコクリと首を振ると、トマトにむしゃぶりつく。
新田製トマトは、やっぱり甘くておいしかった。
潤んだ目を拭いながら、ひたすら食べた。
みんな、みんな…大好き。
13・
コンコン、とドアがノックされる。
「はい」
とわたしの代わりに朝吹さんが出た。
わめき散らしてすっかり消耗してしまったわたしは、みんなの前へ出るのがやっとだった。
再び自室へ戻り、今はこうして朝吹さんの淹れてくれたカモミールのハーブティーを啜っ ている。
「入るわよー」
やって来たのは栗花楽さんと青井さん。
「どう、疲れた?」
「栗花楽さん…」
「ストップ」
栗花楽さんは指鉄砲でわたしを制した。
「一言でも謝ったらぶっ飛ばすわよ」
「そうだな」
青井さんが腰を下ろしながら頷く。
「実際、君には謝らなきゃならない理由はないんだから。強いて言うなら、ああ叫ばされた 事情がある、ってことか」
「でも…」
「感傷に浸っている暇はないの」
栗花楽さんは正座しながらメモ帳を取り出す。
「佐上さん。ちょっと立ち入ったことを聞くけど、いい?」
「え?…え、ええ」
何をする気だろう。
「先生方にも話をつけてあるし、門脇さんの裏付けも取っているが、相手が相手だからな。 どういう手に出るかわからない。一応、君に関する情報を把握しておくことで、いざという時 の対応もしやすくなる」
「ざっと調べてみたんだけど、あなたのお父様ってけっこう手強そう…あ、失礼」
「いいんです」
わたしは弱々しい笑みで首を振った。
実際、わたしの父は社会にも影響力を持つ会社の重役だ。自然、学校にも教育委員会に も顔が利く。
「あなたから見て、あなたの家族がふだんどんな感じだとか、あなたのお父様の仕事ぶり とか、思いつくことなら何でもいいの」
「基本的には、君が重度のうつ病だということで、門脇さんから診断書を書いてもらってい る。それに、 治療にはこの女子寮で暮らすのがベストだというお墨付きもある。が、なんと いっても一介の養護教諭の言葉だけではちょっと弱いんだ」
「うん。なにしろ向こうは親でしょ? 『娘を返せ』って単刀直入に言われたら、こちらとして も対応に困るのよ」
「直接乗り込まれたらことだしな。正論が一番厄介な手段だという時もある。もっとも『正論 もどき』を振りかざす連中は多いんだが」
「お父様のあなたに対する、その…日頃の教育ぶりとか、接し方とか。問題な行動パターン があるはずなのよ」
「例えばだ、日頃君や君のお母様に対して、威気高な物言いをするとか、あるいは暴力を 振るうとか」
「そう。あなたのその状態を誘発するような――わたしは間違いなくあると思うんだけど―― 何かをしていなかどうか」
「…DVですね」
朝吹さんが横から言った。
DV―――ドメスティック・バイオレンス。家庭内暴力。
話が見えてきた。
つまり彼女らは、父がわたしに何かをしようとすれば、『DV』を盾に突っぱねるつもりなの だ。
(まさか、この人たち)
本気で生徒の親を相手取って戦うつもりなのか。
ううん、目を見れば分かる。
彼女たちが100%本気なのを。
―――できるの?
そんなことが。
「こちらの作戦は簡単だ」
と青井さん。
「君の『病状』とご家族との関連性をはっきりさせる。つまり、原因が家庭内にあることを示 唆した上で、 我々櫟女が、君にとって欠くべからざる環境だということを全面に押し出すこ と。端的に言えば、君の精神状態が回復するまで家族と離れていてもらう。そうでなけれ ば、いつまで経っても立ち直れないからね」
「そのためには、ちょっと面倒なこともやってもらうと思うけど、いいかしら」
「どんなことですか…?」
わが事ながら、ちょっと面白くなってきた。
「門脇さんの知り合いのカウンセラーに診てもらうのよ。もち、プロの人だから。その人の診 断書がまずいるわ」
「なるべく早めに動いた方がいい。あの電話を受け取った後に発症した――現実にそうなん だが―― という点を強調したい。『父親からの電話を受けた直後に容態が悪化した』という わけだ。証人は大勢いるし、話の内容にショックを受けたという裏付けならいくらでも採れ る」
「明日、その先生のところへ連れて行くから、櫟女に来てからのことを頭の中で整理してお いて欲しいの。初めて寝込んだ時から、ううん、入学する時点でどんな気分だったか、と か」
「察するに、君の様子じゃかなり精神的に参ってたんじゃないか」
「はい。その通りです」
わたしは頷いた。
「あの…あの時叫んでたみたいに、『レベルの低い所』へ来て落ち込んでました。これで将 来が終わったような気がして…」
あの時の自分を思い出して、羞恥に頬を赤らめる。
「うん、そう。そういう気持ちを、時間を追って順序だてて思い出してね」
「必ずご家族との接触の後で気分が悪くなっているはずだ」
「…どうしてわかるんですか」
青井さんの指摘が的確すぎて、とまどう。
「原因が家族なら推理するのは簡単じゃないか」
「あなたみたいな人って他にもいるから、そういうケースじゃ大概似たようなパターンがある ものね」
「…たしかに佐上さん、電話とか手紙が来ると暗い顔をしてました」
朝吹さんが頷く。
「ああそれと、日記なんかつけていないかな? たぶん門脇に言われたと思うんだが」
「あ…はい」
書き物机の本立てに挟まれた日記帳を抜き出す。でも、中を見られるのはちょっと恥ずか しい。
「あの…色々くだらないこと書いてるんですけど」
「気にするな。日記なんてそんなもの」
「そうそう。この人なんてね、ポルノ小説書いて、みんなに廻し読みさせて喜んでるのよ。変 態でしょ?」
「「…ポルノ小説?」」
朝吹さんとわたしの声が重なる。
「失敬だな。純粋な想像力の遊戯だと言いたまえ」
「…その想像力の遊戯とやらって、櫟女の誰かさんをすごーく彷彿させるんですけど」
冷た〜い流し目で青井さんを睨む。
けれど青井さんはしれっとして、
「このようにだ、日記というのは何を書いても恥とはならないということ。よって他人に見られ ても問題はない」
怪しい論理を振りかざす。
「まあ、秘密厳守だから」
「いいですよ。お役に立てれば」
「そう?…じゃ、ちょっと借りるわね」
栗花楽さんと青井さんは額を寄せ合って日記帳をめくった。
「…ここの記述は使えるな」
「そうですね、この『体が重い』っていう言葉がある日と家族から連絡があった日を突き合わ せれば…」
(一体、何の話?)
不思議に思っていると、朝吹さんが言った。
「日記に記されている言葉が、あなたの心理状態を証明する貴重な証拠となるのよ」
「証拠?」
『証拠』ってなんの?
「…うむ、だいたい把握した」
「悪いけど、しばらくこれ借りるわね」
「は、はあ…」
二人が立ち上がる。
わたしは追い駆けるように、
「あ、あの…わたしは何をすれば」
「うん?」
青井さんはちょっと天井を向いて、
「走りたまえ」
「―――走る?」
「そう。頭が空っぽになるまで、グラウンドをひたすら走る。そうすれば、自分が何をするべ きか自ずと分かるよ」
「門脇さんがアドバイスしてくれるわ。あ、朝吹さん、後で佐上さんのことで打ち合わせする から来て」
「わかりました」
「じゃ、そういうことで」
ドアを出掛かった時、青井さんがふと思い出したように振り返った。
「佐上君」
「はい」
「これから…いや、いままでも大変だったんだろうが、ひとつ言っていいかな」
「なんですか?」
「立ち向かうにせよ、逃げるにせよ、君を脅かすものから身を守る時、忘れてはいけないこ とがあるんだ」
「…?」
「それは、そのものから絶対に目を逸らさないことだ」
「“目を逸らさない”…?」
青井さんは頷いた。
「そう。どんなに怖くても、『怖いもの』から視線を外さないこと。そして、恐怖の正体を見極 めようとすること。そうでなければ、たとえ逃げようとしても必ず捕まるからね。相手をよく見 ることが、時に最善の方法を教えてくれるんだ」
「視線を、外さない…」
「そう。ま、なるべくそういうことにならないよう、こちらも気をつけるけど…じゃ、失礼」
二人は来た時と同じように足早に去って行った。
「…なんだか物々しくなってきたね」
自分の事のように思えなくて苦笑する。
朝吹さんはまじめな顔で頷き、
「そうね。これから、ってことね」
翌日。
午後の3時を過ぎてから、わたしは栗花楽さんの運転する軽トラックに乗って女子寮を後にした。
朝吹さんも付き添いで同乗する。
着いた先は、ときわ市の外れにあるこじんまりした白い建物で、『島クリニック』という精神 科の病院だった。
「やあ、どうも」
受付の狭いロビーで待っていると、落ち着いた茶色のジャケットに薄いベストを着た、ごく普 通の男性がやって来た。30代半ばくらいだろうか。歳の割には物腰が柔らかい以外、特 に医者らしい感じはしなかった。
栗花楽さんはソファーから立ち上がると、丁寧にお辞儀した。
「急に無理を言ってすみません」
「ああ、いいんですよ。ご覧のとおりいつも暇な病院だから」
後ろのカウンターで受付の女性が「ううん」とわざとらしく咳をする。(もっと仕事して下さいよ) と言っているように見えた。
「それで、こちらが例の?」
一目見て分かったのだろう、わたしをまっすぐに見つめる。視線が柔らかい。
「はい。あの、この人――佐上さんのお父様から電話があったすぐ後に気分が悪くなりまして…」
島先生は栗花楽さんの言葉に軽く頷きながら、言葉の内容よりよく分かるとでもいうように、 わたしをためつすがめつ眺めた。
「―――なるほど。じゃあ、診療室でちょっと話を伺いましょうかね」
促されるまま歩き出すと、
「あの、これを」
朝吹さんが先生へ透明ファイルに挟んだ書類らしきものを手渡した。
先生はちらりと書類を覗くと、
「さすがですね」
栗花楽さんに笑みを見せる。
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げる栗花楽さんと朝吹さん。
「はは、そこの休憩室で待ってて下さい。お茶でも出しましょう。…根矢くん」
受付の女性は心得たとばかりに頷くと「こっちでお茶しましょ」と二人を案内する。どうやら 顔見知りらしい。
わたしは島先生に連れられて、診療室のドアをくぐった。
室内は白い壁に囲まれ、中には木製の机と椅子が二、三脚、それに人ひとりが寝そべら れるソファーベ ッドが置いてあった。
机の上にはちいさなシクラメンがちょこんと乗っかり、壁には額に入った水彩の風景画が 並べられている。患者を診る部屋というより、ちょっとしたギャラリーのようだ。
勧められた椅子はびっくりするほど座り心地が良く、腰を下ろすと自然にくつろいだ気分に なる。
窓はレースのカーテンで縁取られた上の部分が丸い縦長の窓で、落ち着いた雰囲気を醸 し出していた。
島先生はファイルから書類を取り出し、一枚一枚ゆっくり眺めながら、
「精神科は初めてですか」
「はい」
「緊張するでしょう」
笑うと子供のような笑みになる。
「いえ」
つい誘われて、微笑んだ。
―――この人、どこか誰かに似ている。
(…ああ、そうか)
櫟女の子にそっくりなんだ。大将とか、栗花楽さんとか、西条さんとか…あそこのみんなが 持っている雰囲気をこの人からも感じる。
「お家は小金井の方ですか」
「そうです」
「いや、あそこの小金井公園はいいですねえ。ジブリ美術館もわりと近いでしょう?」
書類を見るともなく見ながら質問する。質問というより、ほとんど世間話。
どんなことを聞かれるのかと思っていたわたしは、肩透かしを喰った気分だった。
―――それで、子供の頃はどんなことが好きだったんですか?
―――あ、そのテレビならぼくもよく観てましたよ。
―――はー、なるほどなるほど。
時折あいづちを打ちながら、わたしの言葉に耳を傾けている。いつの間にか話をするのは ほとんどわたしで、先生は時々二言三言質問する以外、どんどん連ねてゆくわたしの言 葉に頷いているだけだった。
「うーん…なるほどねえ」
ちょこちょこっとメモしながら、
「いや、厳しいお父さんですねえ。氷河期みたいに」
『氷河期』の表現がぴったり過ぎて、わたしは思わず笑っていた。
「どうですか、櫟女学園は。学園というより女子寮かな」
「居心地がいいです」
素直に答える。
「出来ればずっと…卒業するまで、暮らしたいんですが…」
わたしは口ごもった。
それが可能かどうか…
そんなわたしに先生は、
「できますよ」
(いや、そんなあっさり)
「あの子たちが付いてるんですから、大丈夫です。わたしは見てますからね、長年」
島先生は春が来て夏が来る、というくらい当たり前のように櫟女を肯定してしまった。
「前の年も、その前も、その前の前も、あなたのような子と何人も関わりましたけど、みんな 無事卒業して社会で立派に活躍しています。…いや、立派っていうか、例外もいるかな」
「例外?」
「社会の範疇を超えたところでご活躍中の人も。犯罪的ってわけじゃないですよ。ただ、一 風変わってるんでね」
「…ああ」
なんとなく分かる。
櫟女にいれば、変わってる人のひとりやふたりはいつも見掛けるし…斉藤さんみたいに。
「大船に乗った気分でいろって言われても不安なことは不安ですよね。ぼくの先生を紹介し ましょう。大学の恩師でね、わりと学会にも顔が利くんです。あなたには治療よりも女子寮 で好き勝手に暮らすのが一番ですから」
名刺を渡されたので名前を見ると『西園寺武久〔さいおんじ・たけひさ〕』とあった。
会見が終わったので部屋を出て、休憩室の方へ移動する。
向こうの部屋も診療室をやや大きくした感じの、シンプルで落ち着いた所だった。
腰を上げかける二人を制し、
「だいたい把握しました。今夜診断書を書きますんで、明日郵送で送りましょう。明後日に は寮へ届きますよ」
「お手数をお掛けしまして」
「いやいや。それとね、西園寺先生にも連絡を取るから、もしぼくでダメだったら彼の診断を 得るといいよ。 今回は権威が要りそうだから」
島先生は腰を下ろすと、テーブルを囲んで女子高生三人と歓談に及んだ。
釣りが趣味らしく、今年は鮎の解禁が遅れているとか、沙々羅川に釣り人が例年より多い か少ないか、 とか聞いてくる。
わたしたち櫟女生も当然魚を貴重なタンパク源とみなしているので、腕に覚えのある人た ちは漁を営んでおかずを得るのに余念がない。というわけで、島先生と櫟女生は共通の 話題を常に抱えていた。
「あ、それでお金のことなんですけど…」
去り際に栗花楽さんが言い掛けると、島先生は指を振ってNOのジェスチャーをした。
「今回は診断書を書けばいいだけでね。それぐらいならいつでもやりますよ。幸い、みんな の面倒見が良かったんだろうけど、佐上さんの状態はかなり良いです。これが通院とい うことになれば、こちらも商売だから正規の料金を頂くけど。まず何よりも、佐上さんが伸 び伸びと学園生活を送ることが重要です。 それができれば、後は自然と元に戻りますか ら」
「それはまかせて下さい」
「うん、そうだね」
ニコニコしながら先生は頷いた。
「…ああ、そうそう。お礼というなら、例の学園祭。毎年恒例のアレ、楽しみにしてますよ」
「そっちもお任せ下さい。度肝を抜かせますから」
「おお、言いましたね」
フッフッフッ、と不敵に笑う栗花楽さんを、期待に満ちた目で見る。
クリニックを出たわたしたちは軽トラで再び道を戻り始めた。
「…さっきの話ですけど」
「うん?」
「学園祭で、いったい何をするんですか?」
「うーん…」
好奇心を抑えかねたわたしをはぐらかすように、栗花楽さんは顎と首のつけ根に指を当て た。
「そうねえ、この騒動に片がついたら教えましょう。というより、あなたへの『貸し』を学園祭 で返してもらうわ」
(え? 貸し?)
「…なんだか大変そう」
朝吹さんがつぶやくと、
「うーん、そおねえ、死ぬほど大変かも」
栗花楽さんはあっさり頷く。
「ええっ? 何ですかそれ、教えてください」
「だーめ。それは後のお楽しみ」
「いえ、楽しみじゃなくって、すっごく心配なんですけど…」
ほとんど漫才と化した会話を交わしながら、わたしたちはおしゃべりに興じていた。
かくして数日が過ぎた。
電話での衝撃は、跡形もなくというほどでもないけれど、かなり薄れてきていた。
わたしは青井さんの忠告どおり、毎日暇をつくっては10分ほど走った。場所はグラウンド の時もあるし、女子寮の前庭の時もある。
時々不安に胸を突かれ、息もできないほど苦しくなると、急いで外へ出てとにかく走った。 それほど体力のないわたしでは長い距離を走ることはできなかったけれど(なにより勉強 づくめの生活が祟ったのか 体育はからっきしだったし)、確かに効果はあった。走っても嫌 な空想や苦しい思い出は浮かんでくるのだけど、もう足がついてこれずに走るのをやめる と、後は息をするのに必死で頭が空っぽになる。ハー ハー息をついていると、呼吸するの がやっとで、いつの間にか悪夢は消えているのだった。
時には他の女子が面白がってわたしについてくる。みんなでワィワィ騒ぎながら走っている と、なんだかすべての事がバカらしいほど滑稽に思えてくる。走った後はお茶にお菓子で 楽しく時を過ごした。
今では朝吹さんや三枝さんを相手に好きなマンガのことをあれこれ話したり、今度収穫す る野菜や果物で出来る料理(櫟女は自家製が多いから自然と季節ものが大きな割合を 占めるのだ)を考えたりする。
父の『攻撃』にも関わらず勉強への意欲は高まり、授業も半分くらいなら出られるようにな った(もっともペースは以前よりずっと緩やかだけど)。
「闇雲に出るより、今は面白なっと思った授業に出るくらいの気持ちでいいわよ」
と、担任の鎹先生はアドバイスしてくれた。
「今は一年生でしょ? 就職とか進学とかより、自分の嗜好っていうか興味のある分野を知 っていた方が、後々長い目で見れば得なのよ。ま、勉強でもバイトでも部活でも、首を突 っ込みたいことに専念なさいな」
「いざという場合には留年って手もあるしな」
「こらっ」
青井さんの言葉に鎹さんは睨んだけれど、彼女の表情から察するに、それほど珍しいこと じゃないみたい。本当に、おおらかというか大雑把というか…
そんなこんなで日々はあれよあれよという間に過ぎてゆく。
例の一件以来、家族からの電話もなければ手紙も来ない。あの転校の話が嘘のように何 も起こらなかった。
いい加減違う意味でこちらが不安になる頃。
それは、突如として起こった。
14.
「おはよう」
いつものように朝吹さんがわたしの部屋へやって来る。
結局のところ、なし崩しの『告白』があったにも関わらず、わたしたちは毎日顔を合わせて いた。
朝ご飯も二人で食べるし、勉強もするし、畑仕事もする。なんだかんだで相性がいいらし い。
朝吹さんは時折切なそうにちいさくため息を吐くことがある。が、すぐに笑顔に戻って何で もなかったように振舞う。そんな時、わたしはちょっぴり申し訳ない気持ちになった。
すでに目が覚めていたわたしは、
「おはよう」
の返事とともに起き上がり、身に着けていた丹前を脱ごうとした。
と。
(…………あれっ?)
何気なく朝吹さんの顔を見ていたら、急に人前で裸になるのが恥ずかしくなった。
それまではなんとも思わずに、毎日々々彼女の前で裸になっていたけれど。裸って言った って下着はちゃんと身に着けているし、すぐにジャージを着るので、素肌を晒すのはほん の一分か二分。
…けど、今朝に限って、その一分が耐え難いほど恥ずかしいことのように思えた。
「どうしたの?」
朝吹さんが怪訝そうな顔をする。それはそうだ。いままで当たり前にやっていた事をやめる のだから。
わたしは胸のドキドキを悟られないよう、努めて冷静に、
「…あの、ちょっとむこう向いててくれる?」
クールに言ったつもりなのに、言ったとたん、頬がカァ〜ッ…と熱くなった。…み、みっとも ない。
朝吹さんは「ん?」と聞き返したけど、意味が分かったのか、こちらも顔がみるみるうちに 真っ赤っかになる。
「…あ、ああ。ごめんなさい」
クルッと反転する。
後ろで組んだ両手がもじもじと親指を交互に握り、捻って絡めた足首が虫刺されのように 擦り合わされた。
わたしも彼女の姿をとても見られなくて、背中合わせになってから丹前を脱いだ。
ジャージを着る間、喉がイガイガして咳が出る。…なんとなく彼女がこちらを覗いているよう な気がしたけど…してない?
ちらっ、とだけ後ろを見ると、律儀にむこうを向いている。なんだ、ガッカリ………い、いや、 ガッカリって?
(どうしたのかしら)
いままで何ともなかったのに。
「…お、お待たせ」
「…うん」
わたしたちは向き合った。
動悸がまだ治まらない。
空気が痛いんですけど。
「あ、あの…今日は」
いたたまれなくなって天気の話でもしようかと思った矢先、
「―――平気だと思ってるんでしょ」
朝吹さんが遮った。
「……へ?」
「あなたのその…姿を見て。なんとも思わない、って」
「あ、いやあ…」
この場合、何を言ったものか。
「…これでも我慢してるのよ」
やや興奮気味に睨んでくる。
「変に思われるかもしれないけれど…ううん、きっと変なのよわたし。だから、毎日理性でも って抑えつけて、」
「わーっ、わ、わかったわかった」
何を抑えつけているのか知らないが、これ以上聞いたらヤバイことになりそう。
「わかってない、全然」
「わ、わかったから、ほら、早く行こ」
とにかくこの場をしのがねば。
急いで取った朝吹さんの手を引っ張ると、
―――びくっ、
彼女の滑らかな指の感触に、今度はわたしが固まってしまう。ホント、どうしたのよ、もう…。
朝吹さんはますます顔を赤らめたけど、
「………もう!」
怒ったように自分から手を引いて、わたしを部屋から連れ出した。
食事を済ませ、わたしは二限目の数学に出るべく準備をしていた。
数学といっても通常の授業ではなく、『すうがく寺子屋』なるおかしな名前の特別授業へ出 席するためだ。小早川という小太りの男性教師が始めたもので、数学のわからないとこ ろは何でも面倒を見るとい う珍しい授業。扱う範囲が小学校から大学クラスまでと幅広く、 中学でどうしても苦手なところがあったわたしは、まずそこから始めたいと思ったのだ。
なにより彼の教え方がうまいし、授業に出ると毎回リンゴ一個を貰えるというのが大きい。ど うやら実家が農家で、たくさん送ってくるみたい。教師仲間からは『汚い』『賄賂だ』『餌で生 徒を釣っている』と非難轟々だが、自分たちもこっそり貰っているので、小早川先生の方が 一枚上手だった(貧乏なのは生徒だけじゃないみたい)。
あんなことになっちゃったけど、結局朝吹さんとはふたりで食事をした。
食事中はほとんど口を利かなかったんだけど…気まずいし…でも、一緒に居ないとさみしく ていたたまれないような気がして。
彼女も同じ気持ちだったらしく、
「…やっぱり、一人だと寂しいわよね?」
と念を押してきた。もちろん、こちらは頷いたけど、ドキッと心臓が一回鳴った。
…いや、そんな事はどうでもいいから。授業に出よう。
部屋を出ると朝吹さんとバッタリ出会う。
またドキッ、と一回。
今日は朝から調子が狂いっぱなし。
「あ、ひょっとして?」
朝吹さんが嬉しそうな顔をする。この人のえくぼ、好みだなあ…。
「うん。小早川」
「じゃ、一緒ね」
(偶然、か)
「…?」
動こうとしないわたしを訝しげに見る彼女。
わたしは、思い切って言った。
「手…つなぐ?」
「…えっ?」
朝吹さんは一瞬目を丸くして、それから赤くなる。
「…い、いいわよ。もちろん」
わたしの左手と彼女の右手が絡んだ。
動揺を隠すために努めて冷静な顔をしていたけれど、朝吹さんの頬は熟れたように赤くて、 折角の演技を台無しにしていた。わたしだって、おんなじようなものだろう。
わたしたちは結婚式場の赤いビロードを進むように、静々と歩き出した。
なんだか、古ぼけた廊下が神聖なものに思えてくる。
西館から北館の正面玄関へ向かいながら、
(…あー、う〜ん、こういうのって………ゆ、友情よね…?)
心の中で盛んに言い訳を考えていると、
「―――ですから、今は面会できません。お引取り下さいっ」
北館のロビーへ入ると、鋭い制止の声が耳を打った。
なんだろう?…朝吹さんと顔を見合わせて首を傾げた時、
「娘の顔を見に来るのがなぜ悪い。そっちこそ後ろ暗いところがあるんじゃないのかっ」
―――ビクンッ。
声を聞いたとたん、体が硬直した。
(まさか)
そんな。
そんな、あの人が…
「…行きましょう、佐上さん」
朝吹さんが耳元で囁く。
父は庶務課の風祭さんと盛んに口論している。今なら気づかれずに西館へ戻れるかもし れない。
朝吹さんは腕をしっかりと掴んで、溺れている人間を導くように、わたしを連れ戻そうとした。
が、風祭さんがこちらへ目配せした一瞬を逃さず、
「―――真理!」
わたしを目ざとく見つける。
―――見つかった。
姿を見られた。
本当は寝込んでいるはずだったのに、ピンピン歩いている所を目撃された。
(終わりだ)
彼が、迫ってくる。
激怒のあまり、靴を脱ぐことも忘れ、土足でロビーへ上がってくる。
背後には母の姿がちらりと見えたけれど、彼女は玄関に留まったまま動こうともしなかっ た。心配そうに眉をひそめてこちらを伺っている。相変わらずだ。
「―――お待ちください」
ぱたぱたと駆けて来た栗花楽さんが、父の前に立ち塞がる。
「今、佐上さんは療養中で、ああ見えても…」
「どけっ」
腕の一振りで、あっさり跳ね飛ばされる。
彼の腕力にかかれば、女子高生などひとたまりもない。
「ちょっとっ」
「待ってくださいって」
三枝さんも西条さんも、壁になるどころか、弾かれて床に尻餅をつく始末。幼児とプロの大 人がラグビーをやっているようなものだ。
(―――やっぱり)
抵抗なんて無駄だった。
頭でも力でも。
話をすれば理論武装した彼に完膚なきまでに叩かれ、口答えをすれば手を上げられる。な にからなにまで鉄壁の要塞。マンガみたいな表現だけど、それがぴったり。
家に居た頃はそれでもやり過ごす術を身につけていたのだろう、でも…
女子寮で伸び伸びと過ごした後は、彼を見ると恐怖で身が竦む。ホラー映画なんかめじゃ ない。だって、 怪物はスクリーンから飛び出して、わたしを捕まえに来たりしないから。
恐らく栗花楽さんたちはうつ病の診断を盾に面会謝絶の態をとっていたのだろう。それで、 業を煮やした父が直接的な手段に出たのだ。
わたしを捕まえて女子寮から引きずり出せば、もう向こうのもの。
なんといっても、彼らはわたしの親なのだから。
家に閉じ込められたら、二度とここへは戻れなくなる。
(…さよなら)
抵抗する気も失せた。
全身から力が抜ける。
「―――帰るぞ」
温かみの少しもない声がする。
鬼の顔がそこにあった。
腕が、伸びてくる。
反射的に、びくっ、とわたしは後ろへ下がった。
朝吹さんが、最後の盾となって立ち塞がる。
両手で父に掴みかかり、押し戻そうとするけれど、かえって振り飛ばされて壁に叩きつけ られた。
その時わたしは、思わず前へ出ようとした。
体が、自然と動き出す。
そんなつもりはないのに、最後の抵抗だろうか、考える暇もなく。
―――ぱんっ。
振り上げた手が、父の頬を打った。
「…真理!」
母が玄関先から驚いた声を上げる。
けど、打たれた父は、まったく動じない。
「…なんのつもりだ」
わたしの掌は、情けないほど小さな音しか立てなかった。
父を揺さぶるどころか、こっちの手がじいん…と痛くなる。
「親に手を上げる娘がいるかっ」
骨ばった手をグーに固めて、腕を上げる。
だが、わたしが殴り倒されることはなかった。
―――するっ。
滑らかな動作で小太りの少女がわたしの前に立つ。
そうして、わたしの体を背中で軽く押しながら、下がった。
ぶんっ、
髪の毛が震えるほど間近で、拳骨が振り廻される。でもそれは、目の前の少女をかすりも しなかった。
「むっ…!?」
肩透かしを喰ったかたちで、父がたたらを踏む。
驚きと羞恥で、彼の顔が赤くなる。
「…大将」
どっしりと、遠藤さんが、父とわたしの間に立っていた。
まるで岩石のように。
「なんだおまえは……どけっ」
父の目尻が釣り上がる。
ふつうなら縮み上がるほどの恫喝にも、遠藤さんはまるで動揺しない。その背中には緊張 感の欠片もなかった。
「どけと言っとるんだ!」
彼女の不敵な様子に一瞬たじろいだ父は、苛立ちもあらわに怒鳴った。
いきなり力任せに、ドン!と突く。
その瞬間、信じられないことが起こった。
―――ダダッ、
「………………っ!?」
父が、たたらを踏む。
片足を上げてケンケンの要領で、辛うじてバランスを取っている。
(うそ……)
彼の体が、後ろへ跳ね飛ばされたのだ。
ちょうどコンクリートの壁を思いっきり押すと、反動でこちらの体が押し戻されるように。
大将はビクともしなかった。
いくら太っているといっても、男性の基準から見れば遠藤さんは小柄な部類に入る。
身長だってわたしと同じくらいだから、190センチに近い父と比べれば、頭ふたつ分の 差だ。
おまけにわたしの父はふだんから体を鍛え抜いている。
頭も切れるがスポーツも万能で、50代に近いというのに、30代並の体力を誇っていた。 毎日ジョギングと筋力トレーニングを欠かさないし、週末はゴルフにテニスにと社交を兼 ねて遊び回っている。若い頃はボクシングの選手だったそうで、『ガタイが大きいから同ク ラスの相手がいなくて困った』と酔った時は必ずといっていいほど自慢していた。
そんなだから、母もわたしも彼には抵抗できない。なにしろ、暴力という最終手段を常に隠 し持っているのだから。
悪酔いして荒れた時の彼は、直接手を上げたりはしなかったけど、そのかわり手当たり次 第に家具を壊すので大変だった。そのくせ翌朝になるとケロリと平常に戻るのだから、彼 の悪癖を知る者はわたしたち以外誰もいなかった。
常に武器としての肉体を鍛えている父…。
その彼が、遠藤さんに通用しないだなんて、あり得ない。
常識から言って、床へ倒されるのは彼女の方なのだ。
「き、きさま…!」
一瞬とまどった後、父が逆上しかける。思いがけず恥を掻かされて、怒り心頭に達したの は間違いなかった。
もう一度拳を振り上げると、
「―――まあまあ、おとうさん」
場違いにのんびりした声で、大将が言った。
「落ち着きなって」
いつものようにニコニコ笑いながら、何気なく手を差し出す。つられて、思わず父が握手し た。
そのまま、ふたりとも動かない。
「「「……………?」」」
最初、わたしも、朝吹さんも、みんなも、何が起こったのか分からなかった。
父が…父の顔色が、青くなっている。
額に脂汗を浮かべ、必死の形相で耐えていた。
(ひょっとして………握手?)
握り合った手。
父の骨ばった手と、大将のころりとした丸い手。
それが今、力比べをしている。
…ううん、比べているんじゃない。
攻められているのは、父の方。
大将の握力で手の骨が砕かれないように、あらん限りの力で抵抗している。
その証拠に、彼の腕は小刻みに震えていたけれど、大将はケロリとしているのだから。
「………うそ」
誰かがつぶやいた。
玄関先で母がこちらを眺め、口を開けて見ている。その目は、冗談かSF映画の光景を現 実に眺めているような目つきだった。無理もない。わたしだって、同じ気持ちなのだから。
いまでも握力が80kg以上あると豪語してはばからない彼。
その彼を、まるで相手にしていない遠藤さん。
そういえば前に『大将ならリンゴを素手で握り潰せる』『下級生をいじめていた空手部の学 生を、一度に五人も叩きのめした』と聞いたことがあるけど…。
突然わたしは、その噂が嘘でも冗談でもなく、本当だったことを理解した。
「………っ、………っ!」
父が、じりじりと下がってゆく。
苦痛に顔を歪めながら。
遠藤さんは相変わらず穏やかな顔で、
「座って話そうよ」
ソファーのある方へ押して行く。
ハッと我に返ったわたしは、床に倒れている朝吹さんを助け起こした。
「―――大丈夫?」
「…ひどい父親」
後頭部に手を当てながら、顔をしかめている。
その部分にそっと手を当てる。大事はないようだが、打ち所が打ち所なだけに心配だ。
こんな仕打ちをするなんて…
急にわたしは、猛烈に腹が立ってきた。
「朝吹さん、大丈夫?」
栗花楽さんが駆けつける。
「平気です」
「なんだったら、保健室まで連れて行こうか」
「いいんです。だって今…やるんでしょ?」
(“やる”?)
栗花楽さんはちらりとソファーの方を振り返った。父はとうとうそこへ座らされてしまってい る。
「…そうね」
「じゃ、わたしも居ないと」
「わかった…佐上さん、わたしたちと来てくれない? 怖いかもしれないけれど」
「いいですけど…一体何を」
「あなたのお父様と話し合いをするのよ」
そう言いながら、周囲の生徒に目配せしている。頷いた女子が2、3人、どこかへ走って行 った。
「さ、行きましょう」
長方形のリビングテーブルを囲んでソファーが四つ。長いのがふたつと、一人用のがひと つずつ、互いに向かい合う。
わたしは、左に朝吹さん、右は栗花楽さんに挟まれて、長ソファーの真ん中で座っていた。 真向かいに 父と母が並んでいる。右の一人用に遠藤さんが座り、左のは開いたままだっ た。
「―――少し手順が乱れましたが、あらためてお話をしたいのですが」
栗花楽さんが口火を切る。
後ろから差し出された書類を「ありがとう」と受け取りながら、落ち着いた物腰で父と相対し ている。大人でも緊張するほど怖いものを秘めている彼に、ここまで平静でいられる彼女 へ、わたしは内心舌を巻い た。
「話ってなんだね」
「言うまでもなく、ここに居る佐上真理さんのことについてです」
「話もなにも無いじゃないか、娘をこちらへ引き渡してもらえればそれでいいんだ。それ以 外何があると言うんだね」
不機嫌そのもの、といった顔つきで腕を組んでいる。横に大将さえいなければ、すぐにでも わたしを連れ出そうとするに違いなかった。
「転校の手続きはすでにしてある。おとなしく彼女を帰したまえ」
「その手続きですが、わが校ではまだ受理されおりません」
「―――なんだと」
父の顔色が変わる。
「ご存知でしょうが、まだそちらには転学届けの書類も在学証明書も送られていないと思い ますが、違いますか?」
「たしかにまだだが、こちらはきちんと要請しているんだ」
イライラと右膝を貧乏ゆすりする。
「第一、なぜそんなことを学生の君たちに言わねばならんのかね。筋が通らないじゃない か」
「ご存知かと思いますが、わたしたちの学園は、特に女子寮は、生徒の自主的活動によっ て成り立って…」
「―――それがふざけていると言っとるんだ!」
堂に入った恫喝ぶりで声を張り上げる。
「学校へ電話すれば『今療養中です』とか『その件は生徒会へ一任しておりますので、そち らへ問い合わせてください』とか。一体、ここの学校は何なんだ。教師が責任を持たず好き 勝手をさせているとは… わたしはね、君たちのママゴト遊びにつき合っている暇はないん だよ。今すぐ手続きを済ませ、彼女を解放したまえ」
「それはできません」
「君ね、」
言い聞かせるように身を乗り出す。
「自分たちが何を言ってるのか、わかってるんですか? 未成年が、未成年の、責任を負 えると、本気で、思ってるのかい?」
トントンとテーブルを指で突つく。
「―――ママゴト遊びとは言ってくれるなあ」
後ろから青井さんの声がした。
振り向くと、彼女が長ソファーの肘掛に腰を下ろし、のんびりと構えていた。
「未成年がどうとかいう話だが、成年を過ぎた人間が、必ずしも未成年の責任を負えるとも 限らないんだが」
「なに」
「つまり、大人だって結構いい加減なことをやるかもよ、って話ね」
西条さんが割って入る。
いつの間にか、わたしたちを取り囲むように、女子寮の生徒が鈴なりに並んでいた。みん な、思い思いに立ったり座ったり。中には折り畳み椅子を持ち込んでいる、用意のいい生 徒もいる。
「なんだね、君たちは」
やや気圧された形の父。
「ただのギャラリーです。みんな、佐上さんの事で関心があるんですよ」
青井さんの説明にみんなは沈黙で答えた。その雰囲気はとても『関心がある』程度ではな かった。空気に穏やかならぬものが含まれている。
「もう一度ご説明しますと、佐上さんの転校を認められない理由として、彼女が今通常の学 習及び学校生活を営めない状態であることが挙げられます。したがって、安易に転校を 認め、彼女の病状が悪化した場合のことを鑑み、現在は見合わせているとご承知くださ い」
栗花楽さんは淡々と話を続ける。
「“病状”だと」
「すでにそちらへ養護教諭の見立てと臨床心理士の診断書のコピーが送付されているは ずですが。まだお読みになられていないのですか?」
「知らん。そんな紙切れなど」
「ではあらためて申しますと、」
書類を取り上げ、
「―――佐上真理さんの場合、家庭内での教育課程、あるいは厳しい受験のプレッシャー からくるストレスにより、自主的な学習意欲の減退、及び日常生活に支障を来たすほどの 心理的動揺が頻繁に見られました。よって、学校生活を強制的に施行させるよりも、本人 の精神状態が回復するまで、あらゆる抑圧的な要素を排除した環境を」
「ちょっと待て」
父が割って入る。
「“家庭内での教育課程”とはなんだ。君たちは、わたしたちの家庭に問題があるとでも言い たいのかね」
「まさにそれを言おうとしているんですがね」
と青井さん。
「わたしを侮辱する気か! 何の根拠があって、そんな事を言うんだ」
「根拠は、」
と栗花楽さんはわたしの日記帳をテーブルにそっと置き、
「入学してからの彼女の病状と、日々の心理状態を照らし合わせた結果です。この日記に 書かれている内容、あなたがたとの接触前後の心理的変化、私たちや教師から見た佐上 さんの様子を詳細に検討した結果、そうした結論に達しました。これがその記録です。どう ぞご覧下さい」
ばさり、と用紙の束をテーブルに置く。
いつの間にこんな分厚いレポートを書き上げたんだろう?
「もちろん、判断したのはわたしなどではなく、プロのカウンセラーの方です。そのご報告を あなたがたへ送付した…ところが、そちらは読まれていないとおっしゃる」
ここで初めて、栗花楽さんの目が光った。
「侮辱と申されましたが、そちらこそ私たちの行動を軽んじていらっしゃるのでは?」
「それはと…待ってくれ。たしかにね、たしかにママゴトとは言いましたよ。それは悪かった。 だけど君、 信じろと言っても無理だろう。生徒がここまで関わってくる学校なんて聞いたこと もない」
『当然』と言い掛けて、父は態度をあらためた。どうやら、腕力もごり押しも通用しない連中だ と、ようやく悟ったらしい。
緊張でガチガチになりながらも、わたしは思わず笑いそうになった。
たしかにここまでやる学校なんて、櫟女以外にあるだろうか?
この変わり者の集団以外に。
「君たちには感服した」
両手を広げ、前よりもずっと穏やかな態度で話し掛ける。
「見事なものだよ、この…調べ物とか。大した努力だ。それは認めよう。娘もこれだけ気を 使ってもらって、さぞや満足だろう。さっきはいささか興奮してしまったが、あれはまあその …親の引け目ってやつでね。望みどおりの学校へ行かせてやれなかった負い目もあるん だ。わたしも人間だし、君たちが子供を持てば分かるだろうが、親ってのは子供のことにな るとつい夢中になる。だからその、診断とやらにはケチをつける気は毛頭ないが、わたした ちも何分相当落ち込んでいた…と考えてくれないかな」
さすがに大企業の一翼を担う人間らしい。あっという間に態度を変えてくる。
押してダメなら引いてみろ。
わたしは、あらためて父の怖さを認識した。
あれほど激高していたというのに、もう今は冷静に立ち回ろうとしている。
下手をすれば、簡単に手玉に取られるのは明白だった。
「なるほど…それは無理もありませんね」
同情的に栗花楽さんが頷く。
「だろう? 今はもう立ち直っているし、娘もこの学園で伸び伸びとできて元気になっただろ うから、そろそろ時期と考えてもいいんじゃないかと思ってる。そのう…真理はいささかプラ イドが高くてね。目標を常に高く掲げて前に進むのが好きなんだ。だから、『もっと上を目指 したい』と、こうでね。それに、わたしの仕事の関係上、どうしてもやむを得ず環境を変えな くてはいけない事情が急に出てきたもので。それもあって、あんなに焦ってしまったわけだ」
―――上を目指したいのは、そちらだろうに。
わたしは思わずそう言いそうになった。
「そういうわけだから、君の方からひとつ、学校側へ働き掛けてくれないかな。届出が早く受 理されるように」
「そうですねえ…うーん、どうしようかな」
ボールペンを顎に当てながら、栗花楽さんが考え込む。
「―――では、こういうのはどうでしょう。一応、こちらも佐上さんの容態が気になりますか ら、一度ご家族でカウンセリングを受けられては」
「カウウセリング?」
「そこでカウンセラーの方に問題ないと太鼓判を押していただければ、わたしどもも安心し て佐上さんを送り出せるのですが」
「いいとも」
余裕の笑みを浮かべる。
「ぜひそうしましょう。なんだったら明日にでも。じゃ、そういうことで…」
「ただし、カウンセリングにはわたしたちも立ち会います。一応、診療所まで送ったり診断書 を書いてもらった経緯がありますので」
「そんな面倒なことは…いや、そこまでしてもらうのは心苦しい。親切はありがたいが…」
「それと、誰をカウンセラーに指定するかですが、こちら側から一名、そちらからも一名を出 して、双方の意見が一致を見た場合に限り、転校あるいは自宅への帰宅を認めます。それ までは、わたしたち女子寮の管理者が」
「ちょっと待ちたまえ」
笑顔の仮面が剥がれた。
「どうしてそこまで手の込んだことをしなけりゃならんのだ。診療所に連れて行って、診察を 受ければそれで済む話じゃないのか」
「それは、あなたの息の掛かったカウンセラーを雇われれば、診断そのものが公平に行わ れないからだ」
青井さんが言った。
「あなたにとっては、娘を車に乗せれば事は足りる。後はどうにでもなるし。診療所まで連れ て行って、 まだ診断結果も出ないうちから家へ連れ戻されちゃたまらないからなあ」
「わたしを誘拐犯のように言うのは止めたまえ!」
「わたしたちとしては、慎重を期したいだけです」
栗花楽さんが穏やかに続ける。
「あなたのおっしゃるとおり、いくらなんでも未成年が生徒のご両親に代わってお世話できる ものではありません。あくまでも学園の総意のもとに、わたしたちが代理で運営しているの ですから。ですから、 佐上さんのお父様、わたしたちの一存では決められないんです。よっ て、わたしが今言った提案は学園側の意見だとお思い下さい」
「つまり、我々生徒会を納得させられなければ、学園側が転校を認めることはあり得ないん ですよ」
「ううむ…」
父は低く唸ると、黙り込んだ。しばし瞑目している。
朝吹さんが(やった)と笑みを浮かべてこちらを見た。が、青井さんは冷静に首を振り、栗 花楽さんはじっと父と母を交互に見比べている。
母はさきほどから足元を見つめ、一言もしゃべらない。
この従順な、長年夫のやり方に従わされてきた人は、どんな時にも自分の意見を言ったこ とがなかった。
「―――きみたちね、親権という言葉を知っているかい?」
静かに父が切り出す。
「親の権利…つまり、親は子供を育てる権利を根本的に持っているんだ。わかるかね。きみ らの言うことがたとえ正しいとしてもだ。学校側がどう言おうと、親の権利は常に優先され る。わたしがその方面に訴えれば、学校側を提訴するのは簡単なんだよ。…きみらが突 っぱねるのはいいが、かえってそれが、どれだけ周りに迷惑を掛けるのか考えたまえ。そ れに、その事で学校の評判に傷までついたら、 きみらの親御さんだって困ることになるん じゃないのか」
「では、親権を持ち出されるのでしたら、義務についてもご存知ですね」
少しも慌てず、栗花楽さんが反論する。
「その義務に滞りが生じた場合、親権が適用されない場合があることもご承知でしょう?」
「適用されない…?」
「例えば、児童虐待防止法に抵触するような場合とか」
「―――児童虐待だと」
青井さんの言葉に顔色を変える。
「なにを根拠にそんなことを言うんだ。わたしはそんな事をやった覚えはないぞ」
「…鈍感」
朝吹さんがつぶやく。
「なに」
「これが、あなたが佐上さんに対して行った仕打ち。まだ分からないの?」
怒気を含んだ声で、目の前の資料を指差す。
「それとも、あくまでとぼける気なんですか」
「ふざけるな!」
激高して立ち上がる。
「わたしを犯罪者呼ばわりする気なら、ただでは済まさんぞ」
「お父さん…」
たまりかねたのか、母が珍しく制止する。
「おまえは黙ってなさい!…いいか、きみたち。きみたちこそ、うちの娘を洗脳したり、恐喝 まがいの行為でこの学園に閉じ込めているんじゃないのかね。わたしが娘を連れ出せば 学校の、ひいてはきみらのプライドがずたずたになるからだろう。違うか? きみらは、ま るでどこかの危ない宗教団体そっくりだぞ」
「なんですって」
三枝さんが大声を上げる。
「いい加減にしてください。こっちの言うことは全然聞かないで、そっちだけ勝手なこと言わ ないで。佐上さんがどれだけ苦しんできたと思うの」
「わかったふうな口を利くな!」
「まあ、佐上さんのお父様。座ってくださ」
「気安く話し掛けるな! こっちこそいい加減にしてもらいたいんだ! 子供相手に我慢して いればいい気になりおって。責任者を出せ!」
「あーっ、はいはい。今行きまーす」
突然玄関からバタバタと忙しげな足音が響き、腰まで届く長い髪の少女が現れた。顎が四 角ばっていて、顔の輪郭がホームベースにそっくり。
「あっ、どうもどうもこんにちは。ご足労をお掛けしまして……どこまで行ってるの?」
ぼそぼそと素早く耳打ちする栗花楽さんの言葉へ、小刻みに頷くと、わたしの両親へ向き 直る。
「初めまして、生徒会長の野々宮と申します。本日は当女子寮までお越し頂き、ありがとう ございます」
丁寧にお辞儀する。
律儀な母は思わず立ち上がって腰を屈めていた。
「さ、それで、佐上真理さんの転校手続きについてなんですが…」
言いながら空いていた一人用ソファーへ腰掛ける。その動作があまりにも自然なので、父 も母も我知らずソファーへ座り直していた。
「いつにしましょう?」
「…は?」
言われた父がキョトンとする。
「あなたがたご家族の方と、真理さんと、双方の用意した臨床心理士と、わたくしどもの、四 者面談といいますか、会合の第一回目の日取りをです」
「…ちょ、ちょっと待ってくれ」
この勢いの良い生徒会長に呑まれ、口を噤んでいた父は、ようやく反撃に出た。
「それについては、まだ何も決まっていないんだが」
「ええ、ですから、日取りを…」
「日取りうんぬんの問題じゃなくてね、娘の帰宅を問題にしているんだよ、わたしは。面談な どしないで、 素直に返してくれないか」
「そうしますと、帰宅の時期は真理さんご本人に委ねることになりますが、それでよろしい ですか?」
―――えっ?
いきなり話がこちらへ振ってきた。…いや、わたしの問題なんだけど。
いままでの丁々発止のやり取りが、父と栗花楽さんたちの間で交わされていただけに、わ たしはなんだか蚊帳の外にいるような気がしていた。
「委ねるというと…」
やや当惑気味に父が言う。
「簡単に申しますと、真理さんが帰りたいと思えばいつでも帰れますし、転校も希望すれば 可能です。 なにしろこういう学校ですから、転校する人は多いんですよ」
苦笑しながら説明する。
「じゃあ、なんの問題もないんだね」
「ええ」
「では、今日連れて行くが、それでもいいのかな」
ホッとしたように父が言った。
「真理さん、帰る?」
極めて簡単に野々宮さんは尋ねてきた。
いつかの斉藤さんのように、純粋に、質問する。
わたしは胸がドキドキした。
父が、母が………わたしを見ている。
みんなが……朝吹さんが……遠藤さんが………
「あの………」
喉がカラカラになりながら、わたしは答えを探した。
きゅっ…と朝吹さんが手を握ってくれる。
「わたしは…………」
どうしよう。
いきなり放り出された気分。
「何を口ごもってる」
冷たい口調で父が言った。
「はっきり言いなさい」
心臓が早鐘のように打って、胸が錐を突き立てられたように痛んだ。
お願い。
誰か。
時間を、停めて。
時間を…
「真理さん、今日、帰る?」
さらっ、と生徒会長が質問した。
その尋ね方があまりにも早かったので、わたしは考える暇もなくとっさに「ううん」と首を横 に振っていた。
「今日は帰らないそうです」
あっさりと会長がのたまう。
「しかし」
「じゃ、明日帰る?」
父の抗議を無視して、また質問。今度も、反射的に首を振る。
「じゃあ、いつならいいんだ」
「じゃ、いつならいい?」
押し殺した声へ重ねるように、野々宮さんが言う。
わたしは掠れた声で必死に、
「あの………まだ…考える時間が………」
「考える時間などあるか」
「考える時間が欲しいの?」
ずばっと聞いてくるので、首を縦に振らざるを得ない。
「考える時間が欲しいそうです」
鸚鵡返しに会長が父へ説明する。
「それじゃ、なんの答えにもならんじゃないか」
「いつなら答えが出そう?」
「………わかりません」
「真理」
「わからないそうです」
「きみはふざけているのか」
「ふざけてはいません。本人の意思を確認しているところです」
「待ったまった、ちょっと待った」
イライラして父は遮った。
「わたしは娘を家へ連れて帰りたいんだ。それだけなんだ。わかるだろう?」
「ええ、わかります」
「わかるなら、帰るように説得してくれたまえ。生徒会長だろう」
「なぜですか」
「なぜだと」
再三、父の顔色が変わる。
「生徒会長なら、生徒のことを考えたまえ。それがきみの仕事だろう」
「ええ、ですから、今本人の意思を聞きました」
「それでどうするんだ」
「真理さんがいつご自宅へ帰ったらいいかわかるまで、ここに居ることになります」
あっさりと野々宮生徒会長は結論を出していた。
「だから、それじゃ答えにならんと言っとるんだ。いつなんだね?」
「さあ」
「さあだと」
「真理さん自身がわからないのに、わたしにわかるはずがありません」
「きみは…ふざけているのか」
「ふざけてはおりません」
「わたしはあの子の親なんだぞ。その親が娘を連れて帰りたいと言ってるのがわからん のか」
「それはよくわかります」
「だったら…」
「しかしたった今、真理さん本人から、今すぐ帰る意思はない、いつ帰りたいのかもわから ない、考える時間が欲しいと確認したのですが。帰宅の時期を真理さんの判断に委ねる ことに同意したのはあなたですよ」
「それは、そう言えばすぐ帰ると思ったからだ」
「あなたが思っていたのと違う考えを持っていたとしても、それは真理さんの責任ではあり ません」
「なんだって…」
「あなたは真理さんの判断を尊重した。真理さんは明日帰りたくなるかもしれないし、しば らくは帰らないかもしれない。いずれにせよ、親御さんの同意を得たものとわたくしどもは 判断します」
「じゃあ、それはやめだ! いますぐ真理を帰してくれ。手続きの申請もしてある」
「それは承諾しかねます」
「どうして」
もはや父の頭は破裂寸前だった。
「どうしてそうなる。きみらの言うことはさっぱりわからん!何を考えてるのか見当もつか ん。生徒の親が頼んでるんだぞ。それでもダメだというのか」
「そうです」
これまたあっさりと会長は頷いた。
「バカな…理由はなんだ」
「生徒本人の意思を無視したやり方は、たとえ生徒の保護者であっても、わたしたちは同意 しません」
「きみたちは親よりも子供を優先するというのか!!」
「そのとおりです」
野々宮さんはあっけらかんとしている。
その態度が平静すぎて、父はしばらく口を開けたまま声も出ないでいた。母に至っては、 異星人でも見る目つきだ。
「お分かりにならないようなので申し上げますが、当学園は生徒のことをまず第一に考え ております。したがって生徒の不利益になることは、生徒自身が犯罪的・反社会的行為へ 逸脱しない限り、どのような場合でもできるだけ排除するように心掛けています。その点、 お見知りおきください」
「じゃあ、どうしたらいいんだ」
「それはこの子たちが申し上げましたとおり、専門家の公平な意見を踏まえた上でご判断く ださい。彼らの診断により、当学園の環境が佐上真理さんにとってふさわしいものではな いこと、及び彼女の精神衛生上、実家へ帰ることが最上と判断された場合、わたしたちが 彼女を引き止める理由はありませんし、また彼女の意思を最優先に掲げることもありませ ん。 ただし、それはあくまで本人の不利にならないよう舞台設定が整った場合に限ります」
「…つまり?」
「つまり、そちらとこちらの専門家の意見が完全に一致した場合に限るということです」
「それじゃ、いつまで経ってもこちらには不利だ」
「なぜですか。いくらわたしたち櫟女学園の推す方であっても、こちらの利益になるような歪 んだ見立てはそうそうできるものではありません。たとえそうしたとしても、見返りになる物 が何もないんですから」
野々宮さんはおもしろそうにニコリとした。
「ですから、常識的なカウンセラーであれば、意見の一致を見るのは難しいことではないと 思いますよ …それとも、そうではないという理由でもあるのですか?」
父は額に手を当てて、深々とため息をついた。
生徒会長の意見は妥当なものだ。
それだけに、父にとり不利な意見であるのもまた明白だった。なにしろ、こちらは証拠となる ものがきちんと整っているのだから。
そして、なによりわたし自身の意志が彼らとまるで違うことを、たった今暴露してしまったか らには。
「……何様だと思ってるんだ」
怒りに身を震わせながら身を乗り出す。
「きみとて一介の生徒に過ぎんじゃないか」
「そのとおりです」
「一介の生徒が、別の生徒の進退を軽々しく決めて、それで許されると思っているのか」
「軽々しくではありませんが、思ってはいます」
「なぜだね!?」
「わたしが生徒会長だからです」
「なに」
「櫟女学園の生徒会長は、全生徒に対し責任があるからです」
「何を言っとる。責任を取るのは教師の方だ。きみはただの生徒に過ぎんだろう? もう一 度言ってやる。生徒の責任を取るのは、教師の…大人の役目なんだ!」
「この学園では違います」
「なんだって?」
「櫟女学園の教師…あるいは理事長が責任を負うのは、全生徒の責任を負った生徒会長 を『信任した』 ことに対してのみです」
最初は意味がわからなかった。
けれど、その意味がわかるにつれ、その場が異様な緊張感に包まれていくのがわかった。
わたしは…唾を飲み込んだまま息をするのも忘れていた。
父が、…父も目を見張ったまま、絶句している。
母は手をちいさく口に当てて、野々宮さんを凝視していた。
遠藤さんや青井さん、西条さん…三年生を除く全員が、この爆弾発言に目を丸くしている。
「…つまり………」
どうしても飲み込めない薬を口の中で転がすように、たどたどしく、
「学園が……責任を…認めているのは、…君一人なんだな…?……あとの…残りの生徒 については………」
「はい。わたくしが、すべての責任を負います」
ニッコリと野々宮会長が笑う。
―――つまりそれは。
彼女がすべての権限を握り、生徒の動向を決定する権利を有しているということだ。
教師から部活動や学園祭、その他もろもろの(言い方は悪いけれど)『雑用』をこなすので はなく、学校の有り方そのものを決められるのだ。
当然、生徒が不祥事を起こしたり、なんらかの事故に巻き込まれた場合、管理不行き届き で罰せられるのは野々宮さん本人だった。
「…ありえん……」
信じられないものを見る目つきで、
「一体、不始末が起こったら、どうするつもりだ…」
「その時は、学園側がわたしを処分します。退学にするなり、少年院にぶち込むなり、連帯 責任としてわたしが責を負う形になるでしょう。もちろん、不祥事を起こした生徒はこちらで きっちり裁判所へ送り込むなり、その道のプロへ相談するなり、適切に対応します。ただ し、その原因を作ったのはわたくしということになるので、表向きはわたしが矢面に立つこ とになります。実際、うちの学園は生徒を子ども扱いしませんので、そうなったら容赦なく 切り捨てるでしょうね」
「何を言ってるのかわかってるのか、きみは」
呆然として父はつぶやいた。
「自分の人生を棒に振るかもしれないんだぞ」
「それぐらいの覚悟がなけりゃ、生徒の一人も守れません。たとえば佐上さんの場合のよう に」
し―――――ん…
百人近い人間がいるというのに、北館のロビーは水を打ったように静まり返っている。
みんな、生徒会長の言葉にビビリまくっていた。
あの入学式で咬ました言葉は、ハッタリではなかったのだ。
野々宮純。
彼女は、正真正銘の生徒会長だった。
「…わからんな」
父が首を振る。
「どうしてそんなことを教師が許すのか。また、きみみたいな生徒が生まれるのか」
「だってわたしたち、」
とあくまで明るく、
「自分たちが思ったとおりのことをやりたいんです。大人の側の勝手な理屈じゃなくてね。だ から自分のやることに責任も負えるし、自分たちのしたいことが出来るんです」
「それだけなのよ」
斉藤さんが淡々と言った。
「あんまり理屈が単純すぎるんで、わからない人もいるみたいだけど」
両手で顔を覆いながら、父は物思いに耽った。
そうしてしばらくして、
「…………認められんな」
つぶやくように言う。
「そういうことなら、是が非でも認められん。子供が大人よりも力を得るなどということがあ ってはならんのだ。子供は、大人の指導の下で初めてまともな人間へと成長するんだ。き みらの態度はある意味では感服する。…だが、わたしの娘にそんな環境で育って欲しくは ない。断固わたしは反対する」
「ではどうします?」
おもしろそうに野々宮さんが問い掛ける。
父の取った手段は、簡単で効果的だった。
「したくはないが、学費を滞納することもあり得る。それと、仕送りもな」
(なるほど)
感心している場合じゃないけど、それなら確実だ。
お金がなければ手も足も出ない。まだ未成年だから働き口だってない。結局、家へ帰る羽 目になる。
ところが。
「あ、それなら問題ないです」
風祭さんが片手を上げて、あっさり粉砕した。
「わたしたち、奨学金制度がありますから」
「…奨学金制度?」
青井さんが頷く。
「そう、何らかの理由で収入源を断たれてしまった生徒のために、OGや有志の方が資金 を集めて無利子で貸し出すんだ。もちろん、保護者の同意も保証人もいらない。まあ、ほ とんどボランティアというか、共同募金に近い制度だな」
「ここらで暮らしていくなら、あんまりお金使わないしねえ」と西条さん。
「うむ。第一、金の使いどころがない」
「本人が卒業して働きに出れば、5年も掛からないうちに返せる額だし」
「というわけで、それに関してはご安心を。いつでも仕送りを停止したまえ」
「―――ならば裁判だ!」
割れるような声で怒鳴る。
「……お父さん」
「おまえ、わかるだろう。こういう連中とつき合えば、真理がどうなるかくらい」
ふたりは、わたしを眺めた。
なんだか品定めをされているようで、ゾッとする。
「きっと、わたしたちの言うことなど聞かなくなるぞ。それでもいいのか」
「…………………」
いつものように困った顔でわたしを眺める。
意見はあるのだろうが、口を開かないほうが賢明だと思っているらしい。
いつでも夫の影に隠れる妻。
自分からは何も言わず、誰かが決めてくれるまでは、決して自分から何かを負おうとしな い母親。
その時初めて、わたしは彼女に嫌悪の情を覚えていた。
「わかっていると思うが、」
トントンと人差し指でテーブルを叩き、
「きみらは世間から見れば何の責任能力もない未成年だ。その未成年者が学園を取り仕 切っていると知ったら、みんなはどう思うだろうね…? いや、そちらは別に構わないかも しれない。だが、学校側は? 非常識だと叩かれて学園の存続すら怪しくなるかもしれん。 そうなったら、きみたちを守っている薄っぺらな壁など吹っ飛んでしまうぞ。いいのか?」
「それでは、」
と栗花楽さんが別な資料を引っ張り出す。
「わたしたちは、あなたを児童虐待もしくはこの女子寮への不法侵入とみなして逆に起訴 します」
「「…不法侵入?」」
父と母が同時に言った。
「つまり、招かれざる客というわけですよ、お二人とも」
青井さんがしれっとして言う。
「無茶なことを言わんでくれ。いくらなんでも、保護者が学生寮を訪ねたからといって、不 法侵入など」
「たしかにここの女子寮は出入り自由です」
風祭さんが解説する。
「それでも一応、生徒会規則の定めでは、寮生以外の訪問者については出入りに許可が 必要であると定められています。便宜上、いちいちそんな面倒なことはやらないだけで」
「そう、あなたが送ってきた尾澤田邦子〔おざわだ・くにこ〕さんも、本来なら女子寮へ入るこ とはできない」
「…どうしてその名前を」
言ってから父が『しまった』と臍を噛む。…そうか、わたしの様子を見に来たスパイ少女の 名前がそれだったのか。
「それほど難しくはなかったですよ。最後に佐上さんのお母様から連絡があった日から、あ なたの電話があった日までの間に、見慣れぬ人間がいなかったか調べただけでね」
「そーそー、藤が山丘〔ふじがやまおか〕って目立つからすぐわかったわよー」
水色のセーラー服の少女が頷いた。…この制服は櫟女じゃないから、この人も他校のか。
「なんだかんだいっても、ここにたむろするのは割りと常連って決まってるし。見掛けない顔 があったら気づくのもわけないし。おまけに着ているのが、有名女子高の制服じゃあね」
「私服っていうのもかえって目立つわよね」
と、こちらはカナリアと呼ばれている人。この人も他校からの常連だ。
「そこでその女子高の名簿を調べたところ、あなたの企業と関連の深い会社に勤めている 父親がいたわけだ。親類に頼めば何かと噂になるし、あなたのようなエリート一族の間で 櫟女の話題を持ち出すのはできれば避けたい。であれば、日頃親しい取引先の――主 に下請けの――相手を探して、その人物に頼むわけ。『娘がうまくやってるか、ひとつ確 認したいのだが』とか言って。向こうは子煩悩の親バカと受け取って、娘をやるくらいの簡 単な用事なら引き受けるだろう。なにしろお得意様の機嫌は損ねたくないし、新しい注文 をちらつかせれば、こちらの言うとおりに動かすのは難しくない。
…と、推理したのが、うまく当たってくれた」
「そんな名簿どこから持ち出すんだ」
「あたしたち、これでも顔が広いのよ」
西条さんが不敵に笑った。
「色々、大人の人にもつながりがあるし」
「尾澤田さんの裏付けはすでに取ってある。あなたの物の考え方をみんなに伝えるには、 いい証言になるだろうな」
「それがどうしたと言うんだ」
開き直って答える。
「娘の身を心配するのは親として当然だ」
「でも、この女子寮での振舞いは、あまりそういう印象を与えませんが…」
用心深げに栗花楽さんが言う。
「動転していたんだよ。…そう、ちょっと興奮しただけさ」
「これでも『ちょっと』なんですか」
朝吹さんが目配せすると、すっ…と庶務課の生徒が寄って来て、小さな箱を渡す。そのス イッチを朝吹さんが押したとたん、声がロビーいっぱいに響いた。
<―――ですから、今は面会できません。お引取り下さいっ>
父の表情が強張る。
やられた――顔にそうはっきり書いてあった。
<そっちこそ後ろ暗いところがあるんじゃないのかっ>
<今、佐上さんは療養中で、ああ見えても…>
<どけっ>
<きみらは、まるでどこかの危ない宗教団体そっくりだぞ>
<わかったふうな口を利くな!>
「…声だけだ」
苛立たしげに父が反論する。
「現場の様子がどうなのか、わかるはずが…」
そう言うそばから、次々とテーブルへデジタルカメラや携帯電話が置かれ、画面に動画が 再生された。 どれも父の暴行を余すところなく映し出している。中にはどうやって撮ったの か、真正面から彼の顔をアップで映していた。その顔がとても穏やかに見えないのは、言 うまでもない。
それでも父の虚勢は崩れない。
「どうってことはない」
精一杯背筋を伸ばし、
「こんなのはいくらでも捏造できる。証拠とするには弱すぎるよ…それに、わたしの知り合い には優秀な弁護士が幾人もいる」
「わたしたちにもOGの弁護士はいますよ」
「だが費用はどうする? 知らないだろうが、裁判ってのは金で左右される部分が大きい のだ。証言だって金で買える。きみらのように貧乏で無能な輩はには太刀打ちできんほど の資金がこちらにはうんとあるんだ」
「言ってやれ、野々宮」
青井さんが今にもアクビしそうな声で促した。
「まだわかってないようだ、この人は」
「何…………?」
「佐上さん」
生徒会長はソファーにもたれかかりながら、
「わたしたちに失う物はないんですよ」
「なんだって」
「あなたのおっしゃるとおり、裁判では圧倒的にあなたがたの方が有利です。…ですが、勝 ち負けはこの際どっちでもいいことなんです、こちらはね」
「どっちでもいい…?」
理解不能の外国語を聞くように、眉根を寄せる。
「あなたが争点とするのは、わたしたちの学園が法的に、あるいは常識的な範囲を超えた やり方を取っていること…つまり、とても未成年の学生を教育するのにふさわしい場では ない点を突いてくるでしょう。 それを挙げられれば、必然的にこちらは真理さんを保護しず らくなる。当然わたし以下教師も弾劾される可能性は高いでしょう。
ですが、それはこちらとして、逆に願ったりの部分もあるんです。なにしろ我が学園の活動 内容をアピールする、この上ない機会でもあるんですから。もしかすると賛同者まで出て くるかもしれない」
「だが逆に、きみらをどうしようもない低俗な連中だと叩くのもいるぞ」
「そう。間違いなく、そうでしょうね。
…でもわたしたち、そういうのは普段から慣れていますから。なにしろ生徒の半分が滑り 止めで入ってくるような低レベルの学校なので」
周囲からクスクスと笑い声が漏れる。
「ですが、わたしたちを評価してくださる大人の方も大勢いるんですよ。あなたには信じられ ないかもしれませんが」
「バイト先では評判いいしな」
「そう、学歴としてはお話にならない。たとえ『たかが』アルバイトでも、手を抜けば『やっぱ りあの学校は…』ということになる。そうなったら、ただでさえ高卒に職はないのに、わたし たちなら餓死しかねません。だから必然的に必死にならざるを得ないんです。自然と評 価は上がっていきます」
「それにバイト先で内定を貰える可能性だってなくはない。伊達や酔狂で昼間から仕事をし ているわけじゃないんでね、こちらは」
「そういうわけで、わたしたちは真剣に地域の方とお付き合いさせていただいています。悪 い評判は聞かないと思いますよ。むしろ心配なのはあなたがたの方ではないかと思うの ですが」
「む?」
「いいんですか、わたしたちのような低俗な学園と、あなたの大切な娘さんが深い関わりを 持っていることになったら…」
「………………!」
―――なるほど。
それはプライドの高い父をはじめとする、我が一族には耐え難い屈辱に違いない。
櫟女を叩けば叩くほど、そんな学校とつながりがあったという事実は、彼らにとって大きな マイナスイメージとなる。ましてや実の娘を、原因そのものを抱えている彼にすれば…
下手をすると、エリート街道から転がり落ちかねない。それでなくても敵の多い人なのに。
「この度は社長に就任されるそうで、おめでとうございます。あなたからすれば、社長の椅 子は頂点ではなくて、より高い、組織の中枢へ昇ってゆく足掛かりに過ぎないのではあり ませんか? その優秀なあなたが、このようなバカ学校を相手に手こずっているのでは、 上にいる人たちはなんと考えるでしょうね」
「むう…………」
「さっきも言いましたとおり、わたしたちは裁判になりましたならば、その機会を最大限に活 用させていただきます。むしろマスコミが大袈裟に書き立てれば書き立てるほど、こちら へ関心を持ってもらえるので、滅多にないチャンスだと考えてます。たとえそれがマイナス の、いいえ、マイナスだからこそ好奇心をくすぐるイメージとして」
あんぐりと口を開けている父へ、野々宮会長は爽やかな笑みを送った。
「どうぞ湯水のようにお金を使うなり、ご存分に。こちらはそれも材料として使わせていただ きます。…あ、 それとですが、もしもあなたに負けて真理さんがそちらへ強制的に連れて 行かれても、わたしたちはそれで終わったとはまったく考えていません。彼女が助けを求 めればいつでも全力で対応するし、求められなくても最低限の追跡調査はしますので、そ の点も留意しておいてください」
―――手を挙げたらタダじゃ済まないぞ――
そう彼女は脅しているのだ。
わたしも、彼女たちの徹底ぶりに、開いた口が塞がらない思いだった。
「………どうしてそこまでするんだ」
長い沈黙の後、ため息を吐きながら、父は言った。
青井さんが答える。
「色々あるんですよ、うちはね。…なにせ、滑り止めで入ってくるような、吹き溜まりの学校 だから。彼女の他にだって、事情を抱えている生徒は何人もいる。そして、そういう子へ大 人が対応するまで待っていられない時も多い」
「放っておいたら手遅れになるケースがいくらでもあるんです」
栗花楽さんが静かに続ける。
「だからわたしたち、授業をサボってまで心理学を学びに行ったり、弁護士と相談もします。 それだけのコネを先輩たちが営々と築き上げてきたし、わたしたちもさらにその上に付け 加えるつもりですから」
「受けて立ちますよ、いくらでも。子供ですから」
ニッコリと野々宮さんが笑う。
父は…混乱していた。
これまで使っていたあらゆる手管が通じない。力も、脅しも、お金も、世間体も。
何度も舌で唇を湿らせ、考え込んでいる。それはなんとしても敗北を認められない哀れな 軍人のようだった。
こんな風に父が見えたのは初めてだ。
「…佐上さん。お父様とお母様に、言いたいことある?」
朝吹さんが聞いた。
わたしたちはテーブルを隔てて見つめ合った。
ふいに、疲労とも悲しみともつかないものが、わたしを襲った。
これまでつかえてきた何かが崩れる瞬間。
「……………ここに居たいの」
「真理…」
母がささやく。
「………ここに居たいの……勉強をさぼりたいんじゃない…怠けたりしたくない……でも… もう叩かれて勉強するのは嫌なの………わたし……もっとふつうでいたい……」
途切れ途切れに、そう告白するのがやっとだった。
「―――親なんだろう?」
それまで一言も口を利かなかった大将が、ぽつりと言った。
「性根据えて自分の娘見ろよ」
わたしは、父を見た。
まっすぐ、正面から。
生まれて初めて。
彼は、奇妙に顔を歪ませていた。
あの恐ろしかった仮面が、ほんの少しずれている。そして、その下で巧みに隠されていた、 なにか恐ろしいほど重い物を背負っている男の苦悶が垣間見えた。
「――――帰る」
わたしがそれを見た瞬間、彼は立ち上がった。そして、一度も振り返らず、女子寮を出て 行く。
母はその後を追う前に、たった一言だけ、
「……いいのね?」
こくり、と迷いなくわたしは頷いていた。
彼女はあらためてゆっくりと櫟女のみんなを見渡し、それから深々と頭を下げた。
「…娘を、よろしくお願いします」
「承知しました」
打てば響く声で、野々宮さんが誓う。
一同は、母に頭を下げて見送った。
やがて、車の出て行く音がする。
その音がちいさく、消え失せる頃、
「―――佐上さんご夫婦、お帰りになられました」
見張りの生徒が玄関へ駆け込んできた。
「よし」
青井さんが頷く。
「これにて、ミッション終了」
わあっ!――― 歓声が上がり、同時にたくさんの手が一斉に万歳をした。
続いて割れんばかりの拍手が生徒会長へ送られる。
野々宮会長は特に舞い上がることもなく、至極平静に、
「今日のところはお疲れ。でも、これはまだ序の口だから、気を緩めすぎないように…まあ、 ちょっとは無礼講でもいいから、騒ぐのを許可します」
「さっすが会長」
「話が早い」
そこここでハイタッチが交わされる中、緊張が解けてわたしは朦朧となった。
耳がぼーっと鳴って、視界がぼやけている。
あれだけのことを親に言えたのも初めてなら、こんなに緊張したのも初めてだ…櫟女へ来 てからというもの、初めて尽くしが本当に多い。
「よくやったわ、佐上さん」
朝吹さんが肩で支えてくれる。
「これで好きなだけ女子寮にいられるわよ」
「ううん…朝吹さんと?」
「え…うん、そう…」
ああ…でも……今は、そっとしてほしい……
「寝かせてやれよ。がんばったんだから」
大将が頭をなでてくれた。
15.
「―――具合はどう?」
部屋へ入ってきた朝吹さんは、保温ポットと新しいハーブティーを棚に置いた。
「うん。…もうだいぶいいみたい」
わたしは布団から上半身を起こした。
父との対決の後、吐き気と悪寒を覚え、三日ほど寝込んでしまった。
急いで門脇さんのところへ運び込まれ、鎮静剤を飲まされて保健室で眠ったものの、心配 されたほどひどい事にはならなかった。それでこうして、部屋でゴロゴロしているわけ。
ふたたび病人へ戻ったわたしを、朝吹さんは甲斐甲斐しく世話してくれた。
ラベンダーの香りがする。彼女がお茶を淹れてくれているのだ。
枕元のマンガを一冊手に取る。
ぱらぱらと見るともなく捲りながら、朝吹さんの後姿をちらりと見上げた。
エプロンにフレアのスカートとTシャツ。
その姿を眺めていると、抑えがたい気持ちが膨れ上がる。
感謝……なんていう、殊勝とはほど遠い気持ち。
―――朝吹さん。
今では、女子寮の…彼女のいない生活が考えられなくなっている。
いつまでも…すくなくとも櫟女学園にいる間は。
「朝吹さん」
「なあに?」
ふたりでお茶を啜っている時、質問した。
「聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
「あなたの下の名前って、なんだったっけ」
「え」
朝吹さんはしばしわたしを見つめると、
「…ひっど―――い!」
「だって、いっつも『朝吹さん』だから、つい忘れちゃうんだもの!」
「わたしはちゃんと知ってるわよ、『真理』って!」
「だから教えてよ」
「…耀」
「ん?」
「朝吹耀〔あさぶき・よう〕。輝くって意味。ちゃんと覚えておいて」
「なるほど、朝吹よぅ〜、って |